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映画エッセイ「ぼくのシネマパラダイス」

 一昨日、小説家・稲葉稔さんのblog に掲載されていたトニーの記事に反応して、とっさに、 こちらのblogに記事を書いてしまったのだが、 そうしたら稲葉さんが、今日のblogで、ぼくのことについて触れてくださった(お恥ずかしい)。

 稲葉さんは、こちらが一昨日のblogに書いた母の映画館勤めのことに触れてくださっていたが、 その記事を読んで、そういえば……と思い出したのが、昨年、映画雑誌「キネマ旬報」の依頼で書いた原稿のこと。「映画と私」 というリレーエッセイのページがあり、そこに寄稿したのが以下の文章(雑誌掲載時のものに手を加えてあります)を再録してみます。



「キネマ旬報」連載リレー・エッセイ『映画と私』

「ぼくのシネマパラダイス」

すがやみつる(マンガ家・小説家)

 深夜、仕事場から家に帰ると、母が、灯明をともした神棚の下で、何ごとか一心不乱に祈っていた。理由を尋ねてみると、 「裕ちゃんが助かりますように」と祈っているのだという。裕ちゃんとは、もちろん石原裕次郎のことだ。
「裕ちゃんには、苦しかった頃に、どれだけ助けてもらったかわからないからねえ……」
 母は、そういうと再び神棚に向かって手を合わせた。一九八一年五月、石原裕次郎が慶応病院で、 大動脈瘤の手術を受けた日の夜のことだった。

* * *

 ぼくが小学生だった頃、わが家は飲んだくれの父が行方知れずも同然の状態で、母ひとりが昼も夜も働きながら、母子ふたりの生計を支えていた。昼は化粧品と生命保険の外交、夜は日活系の映画館で切符のもぎりと清掃。それが母の仕事だった。 一九六〇年代前半、日活アクション映画が黄金時代を迎えていた頃のことだ。
 母が映画館で働いていたおかげで、ぼくは顔パスで映画を見ることができた。貧困のため、 どこの家にもあるテレビもわが家にはなかったが、とくに不満もなかった。いつでも好きなときに映画が見られたからである。 近所の遊び仲間が子供向けテレビ番組の主題歌を歌っているとき、ぼくは、小林旭や赤木圭一郎の映画主題歌を口ずさんでは、 ちょっぴり大人びた気分になって、ひとり悦に入っていた。
 まもなく映画館には人が来なくなった。テレビの普及が原因だった。市内に五館あった映画館も、あっというまに三館に減っていた。
 さいわいなことに、母が勤めていた映画館は生き延びることができた。しかも潰れた映画館で上映されていた松竹や大映の作品までもが、 母が勤めていた映画館で上映されることになったのだ。日活アクションだけでなく、 勝新太郎や市川雷蔵の映画までもがタダで見られることになって、ぼくは大満足だった。小林旭の『渡り鳥』シリーズや石原裕次郎の 『零戦黒雲一家』、市川雷蔵の『忍びの者』といった〔お気に入りの映画〕がかかると、一週間の上映期間中、 一日も欠かさずに通いつめていた。
 赤木圭一郎がゴーカートの事故で重体になったときは、容態を報じる新聞の記事に一喜一憂した。ついに息を引き取ったことを知ると、 自分の兄が死んだかのような悲しみに襲われたものだった。


 母が勤めていた映画館は、隣町にも系列館があり、同じフィルムをバイクで運んでは、二館で使いまわしていた。ときには、 そのフィルム運びも手伝っていた。映写技師から上映が終わったばかりのフィルムが入ったケースを受け取ると、 これを片手で抱えてバイクの後席に飛び乗り、もう一方の手で運転席の兄ちゃんの腰にしがみつく。そのまま隣町の映画館まで突っ走り、 持参したフィルムと、あちらで上映の終わったフィルムを交換すると、また大急ぎで元の映画館にもどってくる。 こんなことが一日に何度も繰り返されるのだ。小学生のぼくにとっては、スリルたっぷりの冒険旅行だった。
 あの「ニューシネマパラダイス」で、同じようなフィルム運びのシーンが出てきたとき、ふいに涙が込み上げ、止まらなくなったが、 それも主人公の少年と同じような体験をした思い出が、ふいに記憶の底からよみがえってきたせいだろう。
 ぼくはのんきに映画漬けの生活を楽しんでいたが、母はちがっていた。飲んだくれの父がこしらえた借金の返済もあって、 昼夜を問わずに働いていたのだが、ときには、つらくてつらくて生きていることさえ嫌にになることもあったという。


「つらくなると、昼間っから映画館に出かけてね……」と、初めて母が打ち明けたのは、石原裕次郎の手術の成功を祈って、 神棚に手を合わせていた夜のことだった。
「暗い映画館の中なら涙を流しても、誰にも気づかれずにすむから……」
 というのが、昼間から勤務先の映画館に出かけた理由だったらしい。
 しかし、泣くつもりで出かけた映画館で座席につき、スクリーンに映る石原裕次郎の笑顔を見ていると、 不思議に泣いているのがバカらしくなったという。たしかに石原裕次郎は、いつもあけっぴろげに明るくて、不敵で豪快な笑顔を見せていた。
 ぼくが映画を見はじめた頃の裕次郎は、すでに文芸路線やラブロマンスが中心になりはじめていた。 小学生のぼくには内容が理解できないところもあって、どちらかというとアクション主体の小林旭や赤木圭一郎をヒイキにしていたが、それでも裕次郎の白い歯を見せた底抜けに明るい笑顔は、いまでもすぐに思い出すことができる(ぼくは石原裕次郎と『あいつと私』や 『にくいあンちくしょう』で共演していた芦川いずみのファンでもあった)。
 母も、あの笑顔を見ているうちに、つまらないことでくよくよしていることが、つまらなく思えてきたのにちがいない。それが 「裕ちゃんには、どれだけ助けてもらったかわからない」という言葉になったのだろう。

* * *

 母の顔が妙にほころんでいるのに気づいたのは、石原裕次郎の手術の日から四ヶ月ほどが過ぎた日の朝のことだった。 なんだか薄気味が悪くなって理由を問い質すと、
「ゆうべね、娘時代にもどって田舎で野良仕事をしていたわたしのところに、裕ちゃんが黒塗りの大きな自動車で現われて、 食事に誘ってくれる夢を見たのよ。モンペ姿で恥ずかしかったのに、そのままでいいといって……」
 と母は白状し、ポッと頬を赤く染めた。
 石原裕次郎の退院が報じられたのは、前日のことだった。裕次郎退院のニュースにテレビで接したことが、母に、 うれしい夢を見させることになったのだろう。このとき母は六十一歳。石原裕次郎より十五歳も年上だった。
 六年後の一九八七年、石原裕次郎は五十二歳の若さで、あの世に向けて旅立った。それから十五年後の昨年、ぼくの母も八十二歳でこの世に別れを告げた。その後、ケーブルテレビで石原裕次郎の映画を見かけるたび、つい 「母は天国で裕ちゃんに食事をご馳走してもらえたのだろうか……?」などと考えるのがクセになっている。

(了)


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