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『仮面ライダー青春譜』プロローグ

※註:

 この文章は、以前『ぼくのマンガ青春期』のタイトルで、すがやみつるのWebサイトに掲載していた作品です。出版を前提に書き直していましたが、読んだ人の好みによって、「マンガ史も含めてほしい」「特撮関連の部分だけでいい」などと、あれこれ異なる意見が続出したため、執筆の手も止まった状態になっています。
 内容については、以前の原稿を全面改稿に近い状態で書き直していますが、筆者としては「1960年代から70年代前半にかけたマンガ史に、どのように関わってきたか」という記録にしたいと考えているのですが、お読みになったうえで、ご意見などいただけたら幸いです。
 なお、まだドラフト段階のため、表記や敬称の統一ができていません。その点、ご了承のうえ、お読みください。

 プロローグ

 一九九八年二月三日の午後、西武池袋線桜台駅南口駅前の喫茶店に、八人のマンガ家が集合した。
 集まったのは、永井豪、桜多吾作、ひおあきら、細井ゆうじ、山田ゴロ、成井紀郎、津原義明、そして、ぼく――すがやみつるの八名である。全員が、石ノ森章太郎先生のアシスタント経験者か、石ノ森作品の著作権管理をしていた石森プロの出身者だった。
 ひさしぶりに顔を合わせた人も多かったのだが、簡単に挨拶しただけで、みんな口が重かった。
「そろそろ行こうか……」
 最年長の永井さんにうながされ、ぼくたちはソファから腰をあげた。
 喫茶店を出ると、西武池袋線のガードに沿って練馬の方角に歩きだす。
 目的地は、桜台駅から徒歩十五分ほどのところにある石ノ森章太郎先生の自宅である。
 石ノ森先生は、六日前の一月二十八日、長い闘病生活の末に、御茶の水の病院で永い眠りについていた。
 先生の死去のニュースが報道されたのは、二日後の三十日になってからだった。家族だけの密葬にしてほしいという先生の遺志で、葬儀がすむまで亡くなったことが伏せられていたらしい。
 しかし、せめて線香くらい手向けさせていただきたい――と、元アシスタントと弟子筋のマンガ家がそろって交渉した結果、ようやく、ご遺族の許しが得られ、この日の訪問となったのだった。
 ガードに沿った細い道を進むと、すぐにバス通りに出る。西武池袋線がまだ高架ではなかった頃、ここには踏切があった。
 踏切の際には一軒のパチンコ店があり、二階は広い喫茶店になっていた。
 喫茶店の名は「ラタン」。店内の一角には石ノ森先生の専用席があった。先生は、毎日のようにこの席に坐り、ダンヒルの紫煙をくゆらせながらマンガのネームを入れていた。
 専用席の近くのテーブルには担当編集者がすわり、先生のネームが入るのを待っていた。ネームが一ページ入るたびに、受け取った原稿用紙にトレーシングペーパーを載せ、吹き出しのなかのセリフを写し取っていく。これが編集者の仕事だった。
 踏切の北側には交番があった。たくさんのファンやマンガ家志望者が、石ノ森先生の自宅への道をたずねた交番だ。あまりにも多くの若者が道をたずねるため、石ノ森先生が用意した専用地図まで置かれていた。
 そんなことを思い出しながらバス通りに沿った歩道を歩き、途中で脇の路地に入る。住宅街を縫うように走る曲がりくねった細い道は、石ノ森先生宅までの抜け道にもなっていた。
「このあたりの景色、あまり変わってないなあ……」
 住宅街の中に、ところどころ高くそびえる木々を見ながら永井さんがいった。
 この道は、三十年以上も前、石ノ森先生のところでアシスタントをしていた永井さんも、よく通った道なのだ。
 ぼくが初めて石ノ森先生のお宅に伺ったときに通ったのも、やはり、この道だった。
 あのとき一緒に歩いていたのは、いまも横を歩いているひおあきらだった。
 永井さんと初めて会い、細井ゆうじと知り合ったのも、同じ日――昭和四十二(一九六七)年三月二十五日のことだった……。


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