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『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(2)

●ペンの線がちがう!

「おっ、来てたのか」
 石森章太郎先生が仕事場に姿を見せたのは、正午を少しまわった時刻だった。
「おはようございます」
 菅野や細井たちは、すっかり顔なじみになっているようで、気軽に挨拶をかわしている。緊張しているのはぼくだけだった。
 石森先生は、後年、パーマをかけた長髪がトレードマークになったが、この頃は、スポーツ刈りにちかい短髪だった。
「新しい会員の菅谷君です」
 菅野に紹介され、あわててお辞儀したぼくは、スケッチブックに挟んできた色紙を差し出した。しかも二枚もだ。
「サ、サインしてください」
 口のなかがカラカラに乾いているために、声がうまく出てこない。
「ちょっと待ってな」
 石森先生は、色紙を受け取ると、仕事机に座り、墨汁をつけた筆でサラサラと『ジュン』を描き、『気ンなるあいつ★』のヒロインの絵を描いてくれた。
 さらに持参した原稿を出しかけると、これからネームを入れに桜台駅ちかくまで出かけるので、そこで見てくれるという。ぼくたちは、石森先生のあとについて桜台駅までもどることになった。

 石森先生が案内してくれたのは、桜台駅北口そばの小さな喫茶店だった。
 ぼくたち五人は、先生とは別のテーブルについた。なんでも好きなものを注文するようにという先生の言葉に甘え、ぼくはオレンジジュースを注文した。緊張で喉が渇ききっていたからだ。
「じゃ、原稿を見せてごらん」
 先生が、ぼくを向かいの席に呼んでくれた。
「お願いします」
 ぼくは、カチンカチンに硬くなりながら、スケッチブックのあいだから取り出したマンガの原稿を取り出した。
 マンガのタイトルは「シークレット・エィジェントマン」。題名どおりのスパイものだった。直前の冬休みに、〈ミュータント・プロ〉の新しい会誌用に描いたものだったが、その会誌は発行されずじまいとなり、宙に浮いてしまった原稿だった。
「ペンの線が汚いなあ……」
 石森先生は、パラリと原稿を見るなり、眉間にシワを寄せていった。
 自作マンガのペンの線が汚いことには、すでに気づいていた。といっても、その事実に気づいたのは、つい先ほど、石森先生の仕事部屋で、アシスタントが背景を描いている原稿を見たときのことだ。
 生まれて初めてマンガのナマ原稿を見たぼくは、まさに度肝を抜かれていた。
 ナマ原稿に引かれた線は、拡大サイズで描かれているにもかかわらず、細くきれいで、そして繊細だった。少年雑誌のザラ紙に印刷された線ばかり見ていたせいで、マンガの原稿が、こんなにもきれいな線で描かれているとは、想像さえもしていなかったのだ。
「ペンは少し使い古したくらいの方が使いやすい」
 そんなことが書かれたマンガ入門書も多かった。ぼくは、それを真に受け、わざわざ使い古しのペンをもらってきては、マンガを描くのに使っていたのだ。
 古いペンの仕入れ先は市役所だった。近所に住む市役所勤めの人に、使い古しのペンが欲しいと頼んでみると、山のように持ってきてくれたのだ。ボールペンもまだ普及していなかった頃で、役所の申請書類は、すべて、つけペンと青インクで書かれていた。
 市役所でも、使い古しのペン先が大量に出るため、捨て場所に困っていたという。そんなときに、ぼくの申し出があったため、喜んで持ってきてくれたものらしい。
 とはいえ使い古しのペン先は、先端がすり減り、変なクセがついていた。
 貸本劇画誌で得た情報によれば、平田弘史氏は、市販のペン先の先端をペンチで切断し、グラインダーと砥石で整形したオリジナルのペン先を使っているという。そこでぼくも平田氏のマネをして、古いペン先を砥石で研いでは使っていたのだ。
 もともとすり減ったペン先だから、引かれる線も当然のごとく太くなる。ザラ紙に印刷され、線が滲んだ状態のマンガしか見たことのないぼくは、ナマ原稿も同じような汚い線で描かれているものと思い込んでいたのである。
「菅野。お前の原稿を見せてやったら?」
 石森先生が、菅野のスケッチブックに視線を向けながらいった。そこに原稿が挟まっていることをお見とおしだったらしい。
「はい」
 菅野がニヤニヤと笑いながら、スケッチブックのあいだに挟まれていた原稿を取り出した。
 菅野の原稿を見て、ぼくはショックを受けた。模造紙の原稿用紙に描かれていたのは、空母から発艦するジェット機の絵だった。ぼくもメカ好きだったので、その機体がグラマンA6「イントルーダー」だということは、すぐにわかった。当時、泥沼状態になっていたベトナム戦争でも使われていた二人乗りのジェット攻撃機だった。
 攻撃機の機体のカーブは、まるで製図器具を使って引かれたかのようにシャープで、しかも背景の空気の流れまでもが、微細な線で描かれていた(菅野が工業専門学校の生徒で、マンガを描くのにドラフターという製図器具や、雲形定規まで活用していたことは後になって知った)。
 昨年(一九六六年)の夏、「ボーイズライフ」(小学館)という男子向けティーン雑誌の読者欄で、マンガ研究会〈ミュータント・プロ〉の会員募集告知を見つけたぼくは、「名誉会長・石森章太郎」の文字に惹かれ、入会審査用のカットを二点描いて会長の菅野誠のところに送付した。
 一点は旧海軍の局地戦闘機「雷電」、もう一点は、藤子不二雄タッチを真似たギャグマンガのキャラクターを描いたものだった。
 一ヶ月もたたないうちに、送ったカットがもどってきた。同封された手紙には、「テクニックがなっていない。レタリングがヘタ」という酷評が書かれていた。会長の菅野が書いた文章だった。
 小学生六年生のときに『マンガのかきかた』(手塚治虫・監修/秋田書店)を読んだのがきっかけで、ペンと墨汁を使ってマンガを描きはじめ、中学三年生のときに遭遇した『マンガ家入門』(石森章太郎/秋田書店)で、マンガ家になろうと決意して以来、ほとんど独学でマンガを描きつづけてきた。
 同じ趣味を持つ友人もいたが、高校生になってまでマンガを描いているのは、ぼくだけになっていた。
 ぼくのマンガを見た友人や近所の人たちは、誰もが「うまいなあ」と感心してくれた。おかげで自作マンガのレベルは、かなり高いところにあるのではないかと思い込むようになっていたのだ。
 その自信が、菅野からの手紙で打ち砕かれてしまったのだ。いや、正直に告白すると、この段階では、酷評の手紙を送ってきた菅野のことを「ちょっとナマイキな奴」と考えていたところもあった。それは菅野の絵を見ていなかったし、プロのナマ原稿も目にしていなかったからである。
〈ミュータント・プロ〉には、いちど入会を断られたが、その後、補欠のようなかたちで入会を許され、この日の上京となったのだ。
 ところが石森先生の仕事場でプロのナマ原稿を見て、またここで菅野の緻密な絵を見せられたことで、それまでの自信はガラガラと音を立てて崩れ落ちていた。いくらマンガがうまいつもりでいても、やはり井の中の蛙にすぎなかったのだ。
「描けば描くだけうまくなるから、あきらめずに頑張ンな」
 ぼくの落ち込む様子を察したのか、石森先生は、そういって激励してくれた。
 石森先生からは、五年後にも同じ言葉をかけられることになるのだが、このとき、そんなことがわかろうはずがない。ぼくたちは、先生のネーム入れの邪魔をしないよう、早々に喫茶店をあとにした。


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