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『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(2)

●「燃えろ南十字星」ショック

 ぼくは小学五年生くらいから戦記画を描くことに夢中になっていた。ノートの落書きは、零戦やグラマンF6Fといった太平洋戦争時代の戦闘機ばかり。少年雑誌の戦記記事や戦記マンガと、プラモデルのブームに影響された結果だった。
 戦記雑誌の「丸」から航空雑誌の「航空ファン」「航空情報」まで読みあさり、零戦や「隼」のスペックを頭のなかに叩き込んでいった。「丸」の通信販売で、零戦のナマ写真を買ったこともある。もちろん零戦を描くときの参考資料にするためだ。
 憧れは、小松崎茂であり、その弟子の高荷義之だった。
 高荷義之の絵は、師匠でもある小松崎茂の絵よりも精緻でスマートだった。とりわけドイツ陸軍の戦車がカッコよく、必死に真似したものだった。もっとも絵の具を使うまでには至らず、せいぜい色鉛筆を使ったくらいのものだったが。
 マンガ雑誌「少年ブック」の表紙が高荷義之の絵に変わったのは、ぼくが小学五年生の終わりくらいだったろうか。ぼくは、乏しい小遣いを貯めては、毎月一冊か二冊のマンガ雑誌を買っていたが、高荷義之が表紙絵を描くようになってからは、「少年ブック」だけを買いつづけるようになった。

「おもしろブック」から誌名を変えた「少年ブック」には、『新選組』(手塚治虫)、『大平原児』(川崎のぼる)、『ゼロゼロ指令』(石森章太郎)といったマンガが連載されていた。
 しかしぼくには、マンガよりも高荷義之の表紙の絵や、小松崎茂が講師をつとめる「戦記画教室」の方が重要だった。「戦記画教室」には、戦闘機の絵を描いては何度か応募したこともある。もっとも、入選したことはなかったが。
 そのぼくが、マンガを描きはじめたのは、学校で配布されたPTA向け雑誌のページを開いたのがきっかけだった。
「母と生活」という保護者向け雑誌が、戦記マンガの特集を組んでいた。もちろん反戦の立場から、戦記マンガを批判する内容の記事だった。
 その記事に、戦記マンガの一ページがカットとして添えられていた。題名は『燃えろ南十字星』というらしいが、作者の名前はわからない。
 記事のカットに使われていたのは、霧のなかから戦艦「大和」が浮かびあがってくるシーンだった。そしてジャングルのなかを飛ぶ九六式艦上戦闘機が描かれたコマ。どちらもあまりにもリアルに描かれていて、ぼくは絶句した。
『ゼロ戦レッド』や『ゼロ戦太郎』など、戦記マンガの数は多かったが、兵器のリアルさ、精緻さは、PTA雑誌のカットに使われているマンガのほうが数倍も上だった。
 PTA雑誌の記事によると、『燃えろ南十字星』は「日の丸」に連載されているらしい。そこに掲載されたカットにショックを受けたぼくは、このマンガが掲載された「日の丸」を求めて友人たちのあいだを駆けずりまわり、ようやく現物に対面した。
 カットに使われていたのは、その年(一九六三年)の新年号に掲載された連載第一回の冒頭シーンだった。真珠湾攻撃に連合艦隊が出撃するシーンのあと、占領されたばかりのラバウルから、ストーリーの本編がはじまっていた。
『燃えろ南十字星』の作者は、松本あきらだった。現在の松本零士氏である。
 それ以前から松本あきらのメカ描写には定評があった。『電光オズマ』や『ララミー牧場』でも、メカや拳銃の描写がカッコよくて、ビリビリとしびれたものだった。
 テレビ映画が原作になった『ララミー牧場』でも、年代別に拳銃を描き分けていたし、シングルアクションとダブルアクションのちがいも描き分けられていた。シングルアクションの回転式拳銃{リボルバー}は、きちんと撃鉄を起こしてから引金が引かれていたのだ。
 この当時、貸本劇画がリアルさを売りものにしていたが、ことメカ描写に関しては、松本あきらのマンガのほうが、五倍も十倍もリアルだった。
 もっとすごいのは、その拳銃の発射音の描写だった。貸本劇画では「ガーン、ガーーン」という擬音がリアルだとされていたが、松本あきらの西部劇では、拳銃の発射音が「ドギュム、ドギュム」になるのだ。「ガーン」よりも「ドギュム」のほうが、どこかリアルに感じられたものだった。
『燃えろ南十字星』に描かれた零戦や紫電、グラマンといった航空機の描写も、これまでの戦記マンガにはないリアルさで、しかもカッコよく見えるデフォルメがなされていた。
『燃えろ南十字星』のメカ描写にショックを受けたぼくは、購読雑誌を「少年ブック」から「日の丸」に変更しようかと考えた。高荷義之が表紙を描く「少年ブック」をとるか、それとも『燃えろ南十字星』の「日の丸」をとるかで、ウーンと悩んでしまったのだ。高荷義之と松本あきらは、ぼくにとって甲乙つけがたい存在になっていた。
 だが、その悩みは、あっというまに解消されることになる。『燃えろ南十字星』が連載されていた「日の丸」が突然休刊になり、連載マンガの何本かが、「少年ブック」で継続連載されることになったのだ。『燃えろ南十字星』も、移籍組のなかに入っていた。ぼくにとっては、まさにラッキー以外の何物でもない状態となった。
 そして、ついにぼくは、『燃えろ南十字星』の影響で、戦記マンガを描くようになった。マンガなら、一枚絵とはちがって、コマ割りができる。零戦やグラマンの動きに連続性をもたせることができるのだ。この体験は新鮮で、たちまち数十ページのマンガを描き進めることになった。
 といっても、この時点では、まだペンでマンガを描いていたわけではない。罫線の入ったノートにコマを割ってセリフを書き、絵を入れていたが、使っていたのは鉛筆だけ。実際のマンガがペンと墨汁で描かれていることも、まだ知らずにいた。


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