« 『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(4) | メイン | 『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(6) »

『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(5)

●「ボーイズライフ」がやってきた

「ボーイズライフ」という革新的な少年雑誌が小学館から創刊されたのは、昭和三十八(一九六三)年のことだった。ぼくが中一のときのことだ。「中学生の友」という雑誌の休刊後、新たに中学生以上の男子向けに創刊された雑誌で、少しマニアックなマンガや記事が掲載されていた。
 マンガでいえば『片目猿』(横山光輝)や白土三平の短篇オムニバス。大藪春彦のガンアクション小説やSFもあった。
 この雑誌に、ショーン・コネリー主演の映画で人気の出ていた「007シリーズ」の一作『死ぬのは奴らだ』(イアン・フレミング原作/さいとう・たかを劇画)の連載が、突如として開始されたのは、東京オリンピックで明け暮れた一九六四年が終わる頃だった。
 すでに貸本劇画の巨匠だったゴリラこと、さいとう・たかをが、本格的にメジャー雑誌に連載で登場した記念すべき作品でもあった(芳文社の大人向け漫画誌に作品を発表していたことはあったが、少年向け作品は、この直前に「少年サンデー」増刊号に掲載された『燃えろ忍びの森』という読み切り時代劇くらいしかなかったはずだ)。
「ボーイズライフ」の『007』は、さいとう・たかをの貸本劇画作品とは、あきらかにちがっていた。冒頭の高層ビル街の夜景が、すでに凝りに凝った精細なペン画になっていた。この絵を見ると、貸本劇画作品は、描き飛ばしていたとしか思えないほどだった。この『007シリーズ』なくしては、『ゴルゴ13』もなかったはずだとぼくは信じている。

「ボーイズライフ」には、長岡秀三というイラストレーターが、口絵のページで大活躍をつづけていた。空母「ミッドウェー」の透視図を描いた大判のポスターが、特別フロクについたこともある。
 長岡秀三は、「ボーイズライフ」の仕事と並行して、「少年サンデー」の口絵や挿絵の仕事もこなしていた。戦艦「大和」や零戦の分解図や透視図が多かったが、これらの仕事をしていた頃の長岡秀三は、まだ武蔵野美術大学のデザイン科に在学する学生だったらしい。少年雑誌の口絵や挿絵の仕事は、学費を稼ぐためのアルバイトだったのだ。
 このとき武蔵野美大で席を並べていたのが、後にマンガ家となって『同棲時代』などでヒットを飛ばす上村一夫だった。上村は、授業中に「少年サンデー」の口絵を描いている長岡に驚嘆していたという。
「少年ブック」の表紙を描いていた高荷義之のファンでもあったぼくは、同じように精緻な絵を描く長岡秀三のファンでもあった。
 長岡秀三は、後にアメリカに渡り、カーペンターズやジェファーソン・スターシップのレコード・ジャケットを手がけて名をあげる。渡米後の名前は長岡秀星になっていた。
 ここでは意識して「口絵」「挿絵」という言葉を使っているが、「イラスト」という言葉がポピュラーになるのは、もう少し後になる。「平凡パンチ」で大橋歩や柳生弦一郎などが人気者になってからだ。すでに、その兆しはあったのかもしれないが、少年雑誌の世界では、まだまだ「口絵」であり「挿絵」であった。
「ボーイズライフ」は、このようなビジュアル面だけでなく、読物にも力を入れていた。それまで、どこか日陰の作家のイメージがあり、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の専属作家のような感さえあった大薮春彦が、ガンアクション小説の連載をつづけていた。また、いまをときめくSF作家たちが、外国人の名前でSF読物を書いていた。
 ぼくは小学生の頃から、大薮春彦の隠れ愛読者でもあった。近所の友人の家に遊びにいくと、いつも「アサヒ芸能」が置かれていた。どうやら父親が購読していたものらしい。当時の田舎では「アサヒ芸能」は、完全なエロ本扱いだった(いまでも似た状態かもしれない)。子供が読んでいたら必ず怒られる雑誌でもあったが、ぼくは、毎週、この友人の家に遊びにいっては、こっそりと「アサヒ芸能」を開いていた。
 目的は大薮春彦のガンアクション小説だった。性的な描写があったかどうかは記憶にない。拳銃やライフルの出てくるシーンばかりを拾い読みしていたからだろう。ルガーP‐08、ワルサーP‐38といった拳銃のスペックは、大藪小説を通じて憶えていった。
 のちに小学館の編集者に聞くと、この「ボーイズライフ」の社内での位置づけは、〈早すぎた雑誌〉であったらしい。一部の好き者少年には評判のよかった「ボーイズライフ」も、一九六八年には休刊となったが、高校生以上にまで成長していたマンガ好きの読者のためには「ビッグコミック」を生み出し、記事とグラビア部門は、「GORO」を生み出す母胎となった。一九六八年の休刊直前に連載されていた大藪春彦の『血まみれの野獣』は、この年の暮れに東京府中で発生した三億円事件とストーリーがそっくりで、犯人が参考にしたのではないかともいわれていた。
「ボーイズライフ」を読んでいなかったら、ぼくもマンガ家にならなかったかもしれない。この雑誌の読書欄で見つけたマンガ同人誌の会員募集に応募したことが、マンガ家への足がかりとなったからである。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.m-sugaya.jp/blog/mt-tb.cgi/224


コメント

はじめて読ませていただきました。
よくご記憶で驚きです。
「ボーイズ~」は、休刊寸前に、その増刊号で、
ぼくの『東海道戦争』(筒井康隆・原作)が
一挙掲載と決まり、カラー扉を描いていたときに
電話がありポシャリました。
替わりに、「デラックス サンデー」で分載します
という条件を蹴り、『アフリカの爆弾』を描かせて
もらいました。
『東海道~』は250ページほど描いてあったのに
90ページカット掲載だったからです。
カットされるのと、分載がいやだった。絵柄が途中で
わざと変わったり、元に戻ったりする作品だったから
です。朝日ソノラマから結局出て、やはり断って
よかったわけです。

貸本はそれ以前、約7年間描き、『忍者1964』など
現代忍者シリーズを最後に止め、スタジオ・ゼロに入社
したんでした。
ぼくは、若木で二冊・あとは全部曙出版。
そのせいか、貸本のことはあまり知らないんですね。
トキワ荘でばかり遊んでいたせいもありますが…。


>長谷先生

 コメントをありがとうございました。

 長谷先生の『忍者1964』をはじめとする曙出版の現代忍者シリーズは、すべて貸本屋で読ませていただきました。

 スタジオ・ゼロに入られたのも、なぜか知っておりました。『しびれのスカタン』あたりは、「あ、これは、長谷先生の絵だ」などと思っておりましたし、『シェーの自叙伝』を読んだときも、「これは長谷先生が書かれたんじゃないか……」などと、勝手に決めておりました。なんで、そんなふうに思ったのか、理由については記憶がありません。ただ、マンガに関する情報は、必死に集めていたので、そんな過程でキャッチしたのかもしれません。

 そういえば「パロディ」という言葉も『シェーの自叙伝』で知ったのではないかと思います。そこに唐突に「パロディのことは中原弓彦氏にまかせて……」という記述が出てきたのですが、田舎の高校生には中原氏が誰のことかわからず首をひねっていました。その正体がわかったのは、上京後、『オヨヨ島の冒険』を読んで小林信彦氏にハマり、さらに「月刊プレイボーイ」の『地獄の観光船』などに夢中になって、ようやく、小林信彦=中原弓彦であることを知りました。

 このコメント欄、コメントスパムが多かったため、オープン状態にしておりませんでした。申し訳ありません。いま、オープン状態に戻しましたので、これで少し様子を見させていただきます。

 これからもよろしくお願いいたします。

  すがやみつる


何気なく、雑誌「ボーイズライフ」を検索していて、ヒットしました。
私は、昭和31年生まれですが、小学生のとき、となりの兄ちゃんが購読しているのを読ませてもらい、休刊まで読み続けました。
最後の号では、「週刊ポスト」に受け継がれるという広告があったと記憶しています。私の人生に影響を与えたのは、タクヤ・ヤマグーチさんらのパロディと、宮谷一彦さんの「不死鳥ジョー」です。
マセガキだったんですね。


>クンタキンヤさん

 申しわけありません。このブログが海外からのスパムに荒らされ、その対応にテンヤワンヤしていたせいで、コメントが記載されていたのに気づきませんでした。コメントが記載されるとメールで報告されるのですが、大量のスパムコメントが来て、その削除に追われていたため、うっかり見のがしてしまったようです。

「ボーイズライフ」は、創刊号からしばらくと、さいとうプロの『007シリーズ』が連載されたあたりで集中的に買っていました。

 パロディというとタイガー立石氏などもマンガを描いていませんでしたっけ?

『不死鳥ジョー』は、切り抜きがあります。

 http://www.m-sugaya.jp/blog/archives/000268.html


 懐かしい情報に巡り遭えました。私は昭和28年生まれです。「007」は似顔絵を毎日描いていたものです。  『ボーイズライフ』には、当時HONDAが参戦し、リッチ・ギンサーで初優勝した頃の「F1」の写真付きの記事もたびたび特集されていたと思います。
 ほとんどの号に読み耽ったはずですが、「007」以外に、どんな漫画が掲載されていたのか記憶がありません。「不死鳥ジョー」の記憶もありません。どなたか、当該情報をご存知の方、教えてください。


>kikikirinnokiさん

 ようこそ。

 こちらも記憶が曖昧ですが、創刊当時は、『片目猿』(横山光輝)、白土三平(毎回読み切り)がありました。

 佐藤まさあき作品もあったはずです。

 あとは、どんなのがあったか……ちょっと思い出せません。


>すがやみつるさん
情報ありがとうございます。
Webを調べると、古書店で、1,500円~2,000円程度で「ボーイズライフ」を通販しているところがありますね。買ってみるつもりです。


嬉しいですねえ。
「ボーイズライフ」本当に懐かしいです。
私は1954年生まれで小学5~6年生頃、友達の家に遊びに行った時に彼のお兄さんにみせてもらってから病みつきになり、それ以来休刊までずっと読んでいました。
幼年時から少年時へのステップアップに相応しい雑誌でした。
何しろ紹介記事からイラスト、ピンナップ、劇画、推理小説と格好良かったですよ。
確か、星新一先生の「千字コント」に一度だけ応募したことがあります。
(落選でしたが)
「ボーイズライフ」と高校時代の「ポケットパンチOH」が四国のカントリーボーイのバイブルでしたね。



コメントを投稿

(お名前とメールアドレスは必ず入れてください)