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『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(10)

●貸本劇画健在なり

 昭和三十年代に隆盛をみた貸本店向けの短編劇画集は、昭和四十年代に入ると、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」といった少年週刊誌の台頭やテレビの普及によって、ドミノ倒しのようにバタバタと倒れ、次々に休刊していった。
 大阪を中心に活動していた劇画家の多くは、活動拠点を東京に移し、しばらくのあいだは貸本屋向けの単行本でがんばっていた。
 さいとう・たかをは、さいとうプロを設立し、佐藤まさあきも同じく佐藤プロを設立する。それぞれが、自分のプロダクションから劇画の単行本を出版するようになっていた。おそらく、このあたりが、「みずから自分たちの描く作品を劇画と読んだ」作家たちの貸本劇画時代における黄金期ではなかっただろうか。
 同じ頃、さいとうプロや佐藤プロの躍進ぶりに刺激されてか、ほかの貸本劇画作家たちも、自身のプロダクションを設立し、単行本を出版するようになっていた。横山まさみちの横みちプロも、そんな劇画家が出版も手がけるプロダクションのひとつだった。
 これら劇画家プロダクションからは、新しい勢力として、アシスタント出身の劇画家が登場しはじめていた。
 さいとうプロの短編集「ゴリラマガジン」では、以前は「魔像」などに時代劇をよく描いていた石川フミヤス、さいとうのアシスタント出身の武本サブローなどが短編を描いていた。石川フミヤスは、別に長編の青春劇画シリーズなども描いていた。
 そして、さいとう・たかを自身は、「ボーイズライフ」の『007シリーズ』を描くかたわら、『台風五郎』シリーズなどのヒット作品を描きつづけていた。

 佐藤まさあきが一貫して描きつづけていたのが『影男シリーズ』だ。また、三洋社(後の青林堂)から出ていた短編集「ハードボイルド・マガジン」の責任編集などもやっていたこともある。佐藤は、この三洋社から『黒い傷痕のブルース』というハードボイルド系の作品も出している。
 佐藤まさあきのアシスタントからは、後年、松森正が「COM」からデビューすることになるが、面白いのは、これら劇画家たちのアシスタントの多くが、貸本屋向け単行本の読者欄に設けられた似顔絵投稿欄の常連だったことだ。
 松森正(熊本県)も投稿欄の常連だったし、後に南波健二のアシスタントになる永安{ながやす}巧(熊本県)や安達{あだち}勉・充の兄弟(群馬県伊勢崎市)も、毎月のように貸本劇画の投書欄をにぎわせていた。
 安達兄弟はメチャクチャに絵がうまく、静岡の片田舎で貸本劇画の読書欄をながめていたぼくは、彼らのことを「群馬の天才兄弟」と呼んでいた。
 とりわけ弟の安達充は、名前が同じで、しかも同年齢ということもあって、妙に気になる存在でもあった。
 兄の安達勉は、その後、赤塚不二夫のアシスタントになり、あだち勉としてデビューする(二〇〇四年に亡くなった)。
 弟の安達充は高校生のときに「COM」の新人賞に佳作入選した後、石井いさみのアシスタントを経て、マンガ家として独立する。ペンネームは、あだち充だった。
(一九八三年に、あだち充氏と一緒に小学館漫画賞を受賞したぼくは、控え室で初対面となったのだが、憧れの人に会ったような気分になってドギマギしてしまい、まともに言葉も交わすことができなかった)
 昭和四十年代に入ると廃業する貸本屋も増えはじめ、貸本劇画業界全体が、急坂を転がり落ちるような勢いで滅びへの道を突き進んでいく。
 そんななかにあって、貸本の最後の残り火のように輝いて見えたのが、東京トップ社という貸本劇画の出版社だった。
 短編集では「刑事」があった。昭和四十四(一九六九)年頃まで出版され、通巻は四十六号くらいまで行っていたはずだ。
 ここには、巨匠のさいとう・たかをや、影丸譲也、永島慎二たちが作品を寄せていた。
 永島慎二の代表作のひとつ『漫画家残酷物語』も「刑事」に発表されたシリーズだった。『貧乏なマルタン』『漫画家とその弟子』など、アクション劇画誌には似つかわしくない作品を描いていたが、中学生のぼくには、まだ、ピンときていなかった。ピンと来て、あらためてシビレるのは高校に入ってからである。
 長編では、ありかわ栄一改め園田光慶が、ひとり飛び抜けてきれいな絵を描いていた。
 絵がきれいな分だけ雑誌への登場も早かった。「少年キング」に連載した柔道ものの『車大助』や、「少年画報」に連載した探偵マンガの『ホームラン探偵局』など、貸本劇画出身者とは思えない清潔感のある絵とシャープな描線が、マニア(ぼくのことだ)をうならせていた。
 園田は、貸本劇画家だった時代に、「座頭市」の現代版ともいえる盲目の殺し屋を主人公にした『完全紳士』でヒットを飛ばしていた。コートをめくると、そこに殺しの武器がズラリと納められていて、実にカッコいい劇画だった。
『ホームラン探偵局』の雑誌連載と同時期(一九六四年頃)、東京トップ社から出したのが『アイアンマッスル』のシリーズである。園田は、『アイアンマッスル』を発表することで、まさに劇画界の革命児となった。
 ラフなタッチの絵が多かった貸本劇画の世界に、かっちりとしたきれいな線を持ち込んだだけでなく、アクションシーンの人物にも、アメコミの影響によるものとおぼしき極端な遠近処理をほどこしていた。構図に奥行きをもたらし、同時に、定規の線で人物の顔や身体に影を加えることにより、さらなる立体感を出していた。
 格闘シーンでは、雲形定規を使ったかのようなきれいに揃った曲線を多用し、動きのスピード感と激しさを表現した。
 主人公に殴られる悪党たちは、顔を変形させながら血しぶきを噴出させていた。その表情があまりにも痛そうで、殴られる悪人にちょっぴり同情したこともある。
 貸本劇画を読みはじめていたぼくも、すぐさま『アイアンマッスル』の絵柄をマネしてみたが、デッサン力の問題で、すぐに断念した。
 園田が開発した技法をマネたのは、ぼくのようなアマチュアだけではなかった。多くの同業者が、次々と園田の構図やペンタッチを採り入れていったのだ。川崎のぼると南波健二のふたりが、もっとも影響を受けていたのではなかろうか。
 貸本劇画家のなかで、いちはやく雑誌進出を果たした園田だったが、『あかつき戦闘隊』の頃には、多くの追随者を生んだ貸本劇画時代の絵柄を捨て去っていた。『あかつき戦闘隊』は、それまでの園田の絵を知っている者にとっては、まるで別人の作品に見えたものだ。
 園田は、『あかつき戦闘隊』のあとに手がけた『ターゲット』になると、さらに絵柄が変わっていた。
 天才肌の半面、飽きっぽい一面もあったのか、園田は、「少年キング」連載の『赤き血のイレブン』(梶原一騎・原作)を途中で投げ出すと、『三国史』などの歴史劇画でカムバックするまで、しばらく沈黙してしまう。
 園田の影響を受けた劇画家のなかでは、川崎のぼるが最初に雑誌の世界で活躍を開始した。「少年ブック」の『大平原児』や『スカイヤーズ5』、「少年サンデー」の『アタック拳』や『タイガー66』からはじまり、後の『アニマル1』や『巨人の星』に至るまで、メジャー路線を歩みつづけていく。だが、『スカイヤーズ5』や『タイガー66』の頃の川崎の絵は、あきらかに園田の絵柄の面影を残している。
 南波健二は、テレビの『コンバット』に影響された戦争劇画が得意だった。彼も、園田光慶に影響されたのか、絵が洗練されていき、やがて、少年誌に登場するようになる。
 東京トップ社で異色の存在だったのが旭丘光志だった。『渡り鳥シリーズ』というギターを背負った青年が主人公の作品(どこから見ても小林旭の「渡り鳥シリーズ」だった)と、「社会派劇画シリーズ」と呼ばれる実際の冤罪事件などをモデルにした実録性の強い作品を交互に描いていた。後者のタイプは、のちに「少年マガジン」などで社会派劇画として話題になる作品群の原点でもあった。
 のちに編集プロに勤務し、旭丘光志氏の社会派劇画が特集された「少年マガジン」増刊号の編集を担当したとき、東武東上線沿線にお住まいだった旭丘氏のお宅まで、原稿を受け取りにいったことがある。
 そのとき、生意気にも、旭丘氏に、こんな質問をした。
「東京トップ社では、社会派劇画と『渡り鳥』シリーズを交互に描いてらっしゃいましたが、どうしてなんですか?」
 旭丘氏の作品は、高校生のときに、ほぼ読んでいたが、東京トップ社から刊行された作品のなかでは、どうみても社会派劇画のほうに力が入っていると思えたからである。
「社会派の方は売れ行きが悪くてね、『渡り鳥』を描かないと出させてもらえなかったんだよ」
 旭丘氏は、あっさりと予想どおりの回答をしてくださったものだ。

 ジリ貧になりつつも残っていた貸本向け単行本も、「ビッグコミック」(小学館)、「ヤングコミック」(少年画報社)をはじめとする青年コミック誌の登場で、その存在価値を失い、バタバタと消えていく。昭和四十三~四十四(一九六九~七〇)年頃のことだ。
 お得意さんになっていた貸本屋の一軒が廃業するときは、お店のオバサンが、「これまでのお礼に、一冊好きな本をあげるよ」と言い出した。毎日のように通い詰め、仕入れの相談にも乗るようになっていたせいだ。ぼくは考えあぐねたすえに、白土三平の『シートン動物記・灰色熊の伝記』をゆずってもらうことにした。一九六三年に『サスケ』とともに講談社児童漫画賞を受賞した作品で、動物や自然の描写が、どのコマも一幅の絵になりそうなほどの素晴らしい作品だ。ぼくは『シートン動物記』を自分のマンガの教科書にするつもりだった(画力の問題で、マネをするのは断念したが……)。
 白土三平は、貸本向けマンガ家の一方の雄でもあったが、ぼくが中学二年生の頃に創刊された「ガロ」を除けば、メジャー少年誌が活動の中心で、書き下ろしの貸本店向け作品は読めなくなっていた。
 ぼくは、貸本系の作品では、どちらかというと都会派のアクション劇画が好きだった。泥臭い感じのする作風のマンガや劇画は、どうしても好きになれなかったのだ。
 そのなかで別格だったのが水木しげるだった。
 ぼくの分類では、泥臭い絵のマンガ家に入っていたのだが、水木の作品には、幼い頃に好きだった杉浦茂や前谷惟光の作品に似た雰囲気があった。怪奇マンガが多かったが、ホワンホワンとしたノンキなムードが漂っていて、ページを開くと、つい引き込まれてしまうのだ。
 とりわけ好きだったのが『墓場の鬼太郎』シリーズである。最初に一冊だけ読んでみたら、あまりにもおもしろくて、『鬼太郎』シリーズの原点でもある『鬼太郎夜話』までさかのぼって読んでしまったほどだった。
 コマのなかに描かれた電柱に、「どっちつかずの民社党」と書かれた張り紙が描かれていたのも『鬼太郎夜話』だったのではないか。困ったことにこのコマが、ぼくの柔軟な脳細胞に民社党のイメージを刷り込ませてしまったのだ。それから四十年が過ぎたいまでも、街で民社党の流れを組む民主党のポスターを見かけるたび、自然に「どっちつかずの民社党」というフレーズが浮かんでくる。マンガの影響というのは実に恐ろしいものである。
 白土三平の『カムイ伝』や水木しげるの短篇が載っていた月刊雑誌「ガロ」(青林堂)は、発行部数が少なかったのだろう、田舎の書店では売られておらず、現物にお目にかかるのは、中学三年生になってからだった。
 ぼくの生まれた静岡県富士市という街は、製紙の街として有名で、市内には多数の製紙会社があった。本州製紙(現・王子製紙)や大昭和製紙といった大工場の敷地には、国鉄東海道本線から分岐線が引き込まれ、貨車で古雑誌や古本が運び込まれていた。いずれも再生紙の原料となる古紙としてだった。
 広大な工場の敷地内には、ゴムの防水シートをかけられた古紙の山がつらなっていた。二階建ての家よりも高く、学校の校舎よりも長い古紙の山が、はるか彼方までつづいているのだ。その山のなかに、「ガロ」をはじめとする珍しい雑誌が埋もれているのを教えてくれたのは、父親が製紙工場に勤めている金森俊昭というマンガ好きの同級生だった。
 ぼくと金森は、日曜日の人が少ない時間を見計らって製紙工場の鉄丈網を破り、工場の敷地内に侵入した。
 手には軍手、背中にはナップザックという泥棒スタイルである。目標は、もちろん古雑誌と古本の山だった。
 雨よけの黒いゴムシートをはがしては、なかの古紙の山から、目ぼしい雑誌や古書を引っ張り出すのだ。「ガロ」や「鉄腕アトムクラブ」など、地元の書店では手に入らない雑誌も発見し、ぼくたちは狂喜した。
 獲物は背中のナップザックに詰め込んで脱出したのだが、ときには警備員に見つかってしまうこともあった。
 何度も見つかるうちに、そんなにマンガが好きならと、警備員のおじさんが正門から入れてくれるようになった。もちろん相棒の金森の父親が、その工場に勤務しているのを知ってのうえのことだ。学校の校庭が十も二十も入りそうなほどに広い敷地いっぱいに、古雑誌や古書が積まれているため、警備員のおじさんも、ナップザック一杯くらいならかまわないと思ったのだろう。
「ガロ」はユニークな雑誌だった。白土三平の「カムイ伝」が連載されたのは、途中の号からだったが、それまで貸本でお馴染みだった水木しげるや諏訪栄(小島剛夕)が読み切りマンガを描いていた。新人の作品が多いのも特徴だった。
 初期の新人には星川てっぷがいる。セントラル出版の「街」でデビューした当初はシリアスなマンガを描いていたが、「ガロ」ではナンセンスマンガを描いていた。星川てっぷのペンネームを使うようになったのも「ガロ」になってからだ。
 その後、つりたくにこ、という名の変わったギャグマンガを描く女性が新人賞に入選し(最初は確かSFマンガだった)、やがて同誌で活躍するようになる。絵は雑だったが、ふしぎなおかしさが漂う作品だった。「少女フレンド」にも名前を変えて作品を発表していたはずだ。
 つげ義春の「沼」という作品が出てきたのは、ぼくが中学三年生頃ではなかったか。
「ガロ」には、マニア心をくすぐるような作品も多かったが、その泥臭さと暗さが、あまり好きにはなれなかった。自分でマンガを描くようになった後も、お手本は、松本あきら(零士)、手塚治虫、久松文雄、小沢さとる、石森章太郎といった〈きれいな絵〉を描く人たちだったからだ。
 貸本劇画に影響されて、劇画風の絵も練習したが、こちらのお手本は、さいとう・たかをであり、園田光慶だった。どちらもバタ臭さが売り物の劇画だった。
 白土三平の作品も、少年雑誌に掲載されるきれいな線で描かれたものは好きだったが、荒々しいタッチで描かれる『忍者武芸帳』や『カムイ伝』には、いまひとつ食指が伸びなかった。のちに多くのマンガ評論家が絶賛する「ガロ」の思想性も、中学生のぼくにとっては、大した意味をもっていなかったのだ。
 ちなみに「劇画」という呼称を「ガロ」系のマンガ家の作品にも与えたのは、美術評論家だった石子順造氏であった。一九六〇年代末のことである。
「ガロ」系のマンガ家たちは、みずからの作品を「劇画」と呼んだことなどなかったのに、評論家が、自分の都合で勝手に劇画にしてしまったのだ。貸本屋に通って「劇画工房」出身の〈自称劇画家〉たちの作品を愛読していたぼくは、劇画家を自称していないマンガ家まで劇画家にしてしまった評論家の文章を読んで、悲憤慷慨したものだった。


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コメント

すがや先生
事実誤認が2点あります。
①劇画単行本から少年雑誌への進出は、ありかわ・栄一よりも川崎のぼるの方が先です。
②『アイアンマッスル』以後、川崎のぼるが影響を受けなかったとはいいませんが、「川崎のぼる」名義の作品に園田の影響が出たのは、園田自身が代筆をしていたため、あるいは園田の影響を受けていたかざま鋭二などが手伝っていたためです。



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