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『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(3)

●長編アニメ『ホルスの大冒険』

 東京にいき、マンガの仲間と会い、マンガ家の先生がたに原稿を見てもらったおかげで、ぼくはすっかり〈その気〉になっていた。
〈その気〉とは、もちろんマンガ家になることだ。高校二年から三年にかけて、ぼくは、何度も上京しては、マンガ仲間と一緒にマンガ家のお宅を訪問したり、当時のマンガ少年のバイブルとなっていた「COM」というマンガ専門誌を出していた池袋の虫プロ商事にも出かけていた。
 たびたび上京するための資金を稼ぎ出すために、夏休みや冬休みには、アルバイトに精を出した。鳶職の手伝いや、東名高速道路の工事など、身体を使うアルバイトが、一番の稼ぎになった。入墨をした鳶職人、気の荒い出稼ぎの漁師のあいだに混じって、ツルハシをふるい、スコップを握った。東名高速道路のインターチェンジの工事では、中学時代の同級生を集めて、金網を張る仕事を土建会社から請け負ったりもした。
 高校二年のとき、竹内さんという一年生の女子生徒と知り合った。ぼくがマンガを描いているという噂を聞いて、彼女のほうから話かけてきたのだ。新聞部に所属し、安保問題などで議論をする才女タイプの女の子だった。
 その頃のぼくは、安保といったら、国連の安全保障条約のことだと思っていたほどの政治オンチ、社会オンチだった。安保が日米安全保障条約のことだと教えてくれたのも、情けないことに、下級生の竹内さんだったのだ。
 竹内さんが、マンガを描くぼくに興味を持ったのは、彼女のお父さんが東映動画のアニメーターだったかららしい。お父さんの名は、竹内留吉さんといい、マンガ家の白土三平氏のお父さんに絵を習った方だという。

 白土氏のお父上である岡本唐貴氏は、「松川の人々」などの作品で知られるプロレタリアート画家だった――というようなことは雑誌の記事で知っていたが、その頃は、プロレタリアートの意味もわかっていなかった。
 しかし、彼女と知り合ったおかげで、高校二年の夏休みには、東映動画のスタジオを見学させてもらえることになり、いそいそと東京に出かけていった。
 西武池袋線大泉学園駅から徒歩15分ほどのところにある東映動画のスタジオでは、『太陽の王子ホルスの大冒険』を作っているところだった。そう、あの東映最後のオリジナル長編アニメといわれる名作である。いまにして思えば、演出・高畑勲、作画監督・大塚康生、美術設計・宮崎駿という豪華スタッフの方々と対面していたはずなのだが、その頃は、アニメ界の事情も知らず、ただポ~ッとしながらスタジオを案内してもらっただけだった。
 見学の途中、動画のセクションで、アニメーターの方が、原画が動くところを見せてくれた。数十枚もある動画用紙の束をバラバラッとめくっていくと、紙に描かれたホルスが氷河を滑ってくる。奥行きのある絵でスピード感もあり、紙の上からホルスが目の前に飛び出してくるかのようだった。
 とんでもない迫力の絵に、ぼくは、ただただあきれ、呆然としたまま原画の動きをながめていた。
 竹内留吉さんは、東映動画の組合紛争に関わっていたとかで、その関係から家族だけ、お母さんの実家のある静岡に別居していたらしい。その問題が解決したのか、娘さんのほうは、翌年、東京の高校に転校していった。
 その後、竹内留吉さんのお名前は、『アタックNo.1』をはじめとする他社のアニメ作品で拝見したが、その後も『DRAGON BALL Z』や『ONE PIECE』などの作画監督として活躍されていたらしい。そして、二〇〇一年五月に亡くなられていたことは、つい最近になってからネットの情報で知った。合掌。


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