« 『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(4) | メイン | 『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(6) »

『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(5)

●就職先は劇画家アシスタント

 ぼくが通っていた高校は受験校だったせいで、三年生になると、国公立、私立理系、私立文系にコースが分かれることになっていた。
 それぞれの受験科目に応じた授業に重点が置かれるのだが、大学に進学するつもりがなかったぼくは、授業がいちばん楽そうな私立文科のコースを選ぶことにした。
 三年生になると、進学相談や父兄面談が行なわれるのだが、大学にいかないと宣言していたため、その行事も省略されることになった。
「ほかの生徒の邪魔にならなければ、卒業させてやるからな」と、担任が保証してくれたので、ぼくは気分が乗らないと、一日の大半を図書室で過ごすようになった。マンガのストーリーを考えるか、本を読んで、ひたすら時間をつぶすのが日課となったのだ。
 読んだのは、井伏鱒二や三島由紀夫の全集からモーパッサンの全集まで。講談社の「われらの文学」も読めば、純文学雑誌の「文学界」や「群像」まで読んでは、ひたすら同級生の授業が終わる時間を待った。
 教室での授業中は、誰かが持ってきた「平凡パンチ」を読んでいた。五木寛之の『青年は荒野をめざす』を読んではシベリア鉄道に夢を馳せ、北原武夫の『ミモザ夫人』という官能小説に妄想をかけめぐらせた。
 マンガ同人誌「墨汁三滴」の仲間は、次々とアシスタントの口を見つけ、就職先を決めていった。会長の菅野誠は、通っていた工業専門学校を三年で中退し、石森先生のアシスタントになるという。しかも、夏休みには、近所に住む宮谷一彦さんのところにも手伝いに出かけていた。

 宮谷さんは、ぼくたちのような「COM」世代にとっては、キラキラと太陽のように輝く新進劇画家だった。そんな劇画家から手伝わないかと声をかけられたのだ。それだけで菅野の腕前が想像できようというものである。もちろん、うらやましくてたまらなかった。
 ほかの同学年の仲間も、夏休み前には、アシスタントになることが決まっていた。細井雄二は、江波じょうじ先生、近藤雅人と田村仁のふたりは、斎藤ゆずる先生のアシスタントになるという。その結果、同学年の同人仲間のなかで、高卒後の動向が決まっていないのは、千葉県に住む小川まり子とぼくのふたりだけになっていた。小川まり子は、線が少しラフだったが、少年マンガのような骨太のストーリーマンガが得意な女子高生だった。
 そんなぼくにもアシスタントになれそうなチャンスがめぐってきた。夏休みに上京したときに、先に江波じょうじ先生のアシスタントになることが決まっていた細井の紹介で、ぼくも高卒後に、江波先生のアシスタントにしてもらえることになったのだ。
 家にもどって就職口が決まったことを母に告げると、さすがに母は泣き崩れていた。大学なんて言葉は、わが家の辞書にはなかったが、やはり、99パーセントの生徒が大学に進学する高校に進んだ息子が、そのまま就職することについては、忸怩たる思いがあったらしい。
 その頃、母が勤めていた料亭には、ぼくが通っていた高校の先生方が、宴会のために、しばしば訪れていた。受験校でありながら、陸上競技だけは全国に名を知られた高校だったが、その陸上部顧問の体育教師が、宴会にやってくるたびに調理場に足を運んできては、「息子を大学にいかせてやってくれ」と、母を説得したのだという。その教師も、父親がいない貧しい家に育ったそうで、お母さんが行商をしながら息子の大学への入学金をこしらえてくれたらしい。
「これからは、大学くらい出ていないと、世の中に通用しない」というのが、その教師の決まり文句で、奨学金の資料まで持ってきてくれていたという。
 少し前までは、頭の片隅のどこかに、大学に行けない悔しさも残っていた。大学には行かないつもりだったのに、どの程度の大学に入れるのかを確認しておきたくて、旺文社や学研の大学入試模擬試験も毎回受けていたほどだったのだ。もちろん受験勉強なんてしたことがないから、理系の国公立大学は全滅。東京六大学の一校の二部ならば、なんとか入れそうな成績だった。
 アシスタントになることが決まったあとも、模擬試験は受けつづけたが、たぶん、自分のアイデンティティのようなものを確認しておきたかったのだろう。
 母には、四年間だけ時間をくれ――と頼み込んだ。四年というのは、もちろん、同級生が大学に行く期間である。
 四年後、大学を卒業し、就職した同級生の初任給よりも収入が少なかったら、マンガ家になるのをあきらめて郷里に帰り、母と同じ調理師になることを約束した。
 もしもマンガ家になれなかったら、手に職をつけるしかない、と考えてはいたが、まだ上京もしていないこの時点では、マンガをあきらめて田舎に帰ることなど考えてもいなかった。とりあえず母を納得させるためには、ウソも方便だったのだ。
 すでに東京のマンガ仲間の実力を知り、「COM」などを通じて、同じ年でありながら、はるかに腕の立つマンガ家志望者がいることも知っていた。そんな腕っこきのマンガ家志望者と競わなくてはならないのだ。
 そこで考えたのは、マンガ家としてデビューする前に、せめてアシスタントの仕事だけでも生活できるようにしておこう――ということだった。
 ぼくは、劇画からストーリーマンガ、そして、ギャグマンガと、ペンを変え、絵柄を変えて、いろいろな絵柄に挑戦した。どんなマンガ家のところでも手伝いができるようにするためだ。この訓練が、後で生活を助けることになろうとは、この時点では夢にも思っていなかった。
 この頃のアシスタント志望者は、誰もが斜線の掛け合わせを習う必要があった。宮谷一彦が導入した斜線のテクニックが、あっというまに劇画、マンガの世界を席巻し、細かい斜線を掛け合わせる技術が、アシスタントになるための必須条件となりつつあったからである。
 もちろんぼくも、シャシャカ、カリカリ……と、斜線を掛け合わせる練習にいそしんだ。その練習のおかげか、ペンの線は、急速にきれいになっていった。
 やがて、高校三年の二学期が終了した。三学期は、受験のために、授業もほとんどなくなる。実質上、この二学期が、最後の高校生活となった。
 冬休みに入る直前、就職がきまっていた江波じょうじ先生から電話がかかってきた。年末進行で仕事が厳しくなっているため、手伝いにきてほしいというのだ。ぼくは冬休みになるのを待ちかねて、マンガの道具と着替えを抱えて上京した。一九六八年の暮れ、東京の府中で三億円事件が起きた直後のことだった。
 細井雄二とふたりで先生の家に泊まり込み、アシスタントの仕事をした。同級生たちは、みんな受験勉強でヒイヒイしているはずだった。そんなとき、ぼくは、いちはやく「大人の世界」に飛び込んだような気になっていた。

参考:小学生から高校生までの自作マンガの変遷


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.m-sugaya.jp/blog/mt-tb.cgi/244



コメントを投稿

(お名前とメールアドレスは必ず入れてください)