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『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(6)

●六〇年代末のマンガ事情

 一九六〇年代後半のマンガ家志望者のヒーローといえば、なんといっても宮谷一彦だった。
「COM」の月例新人賞に『眠りにつくとき』という作品で入選した宮谷は、独自に開発した緻密な絵柄で劇画家志望者を魅了し、さらに先発のプロの劇画家たちにまで、大きな影響を与えていった。
 ぼくたちも、劇画家のアシスタントになると決まったときから、宮谷が劇画の世界に持ち込んだ複雑な斜線の掛け合わせを真似ていた。曲線を掛け合わせたり、直線を掛け合わせながら渦を巻かせるといった細かい作業がどれだけできるかで、アシスタントとしての優劣が決っていた時代でもあったのだ。
 スクリーントーンの二重貼り。スクリーントーンをホワイトでぼかして写真のようなグラデーションの効果を出す。そんな工夫も、皆、宮谷が開拓したものだった。
 宮谷一彦は劇画のテクニック――とりわけ作画技法を大きく変革した革命家だったといってもいいだろう。
 だが、彼の功績は、そのテクニック面だけではない。それまで劇画、マンガといえば、時間つぶしの娯楽だと思われていた世界に、思春期の少年の悩みや、作者自身のことを描いたと思える私小説ともいえる内容の作品を連発してきたのだ。
 マンガ・劇画の文学化は、たとえば永島慎二の『漫画家残酷物語』や石森章太郎の『ジュン』などでも試みられていたが、宮谷の作品は、もっと「身近」だった。

 また、同じ文学的傾向を持つ作品でも、「ガロ」の作家たちの描き出す四畳半・下町・ドブ川的なものとも一線を画す実に都会的なセンスにあふれていた。
「身近」に感じられたのは、そこに描かれた高校生の世界が「リアル」だったからだろう。リアルの要因は、「本物」を描いたことにあった。
 それまで「リアル」を売り物にしてきた貸本系劇画は、実は表現を激しく描く「激画」であり、リアルやシリアスとは、ちょっとちがっていた。
 たとえば少年が煙草の吸い殻を投げ込むのは、コカコーラの瓶である。路上を走るスポーツカーや乗用車も、どこのメーカーの何という車種かまでがわかった。エレキギターはリッケンバッカーだったりと、「ブランドがわかる」のが宮谷作品の特徴でもあった。固有名詞という点では大藪春彦のアクション小説が有名だが、その大藪小説と共通する匂いを放っていた。宮谷は、大藪春彦小説の劇画化も多数手がけているが、これ以上の適任者はいなかった(固有名詞のカタログ小説『なんとなくクリスタル』が出てくるのは十年以上後のことである)。
 私小説的な作品としては、自らを主人公にした『ライク・ア・ローリング・ストーン』。思春期の少年を主人公にした作品では、『少年サンデー』に2回連続読み切りとして登場した『75セントのブルース』、『闇に流れる歌』などがあった。『75セントのブルース』はジャズ・ミュージシャンを目指す少年とトランペッターの出会い、『闇に流れる歌』は、当時、人気の絶頂にあったラジオの深夜放送を舞台にしたパーソナリティと視聴者の少年の交流を描いたものである。さらには、『COM』の別冊付録に掲載された『セブンティーン』が、初めて劇画の中で高校生の妊娠中絶を扱ったということで、話題を呼んでいた。
 授業中に『平凡パンチ』連載で連載されたいた五木寛之の『青年は荒野をめざす』を隠れて読み、図書室で大江健三郎の『セブンティーン』や『死者の奢り』を読んでいたぼくは、すぐに宮谷一彦の作品にかぶれ、彼の作品が掲載された雑誌は、すべて買い込み、丁寧にスクラップしていった。もちろん、細密なペンつかいのテクニックを盗むのも目的だった。そのスクラップが、後に光文社の下請けで『女性自身』の編集を手伝ったときに、五木寛之氏の『海を見ていたジョニー』劇画化の企画が出たときに役立つことにもなった。

 参考:宮谷一彦作品の一部


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コメント

宮谷さんが、突然、フジオ・プロ在籍中のぼくを
訪ねて来たことがありました。
下落合駅前の喫茶店で、はじめて二人で話しを
したんです。(それ以前は真崎・守さんと一緒に
パーティの流れでバーで飲んだくらい~)

彼は長谷さんたちがうらやましいと言うんです。
どうして??あなたは「COM」ですごい話題と
人気で、ぼくらもファンですよ~というと、
でも「少年サンデー」に描けない!と言う。

だったら武居記者に、執筆したいと言っていたと
伝えておきますよ!彼もあなたのファンです。
そんな話しをして別れました。
サンデーの『闇に~』は、そんなことがあったあと
発表された作品です。武居記者が直接担当したかは
確かめていませんが、編集企画にのっけたことは
マチガイありません。

彼はフジオ・プロの事務所を訪問したという
写真を公開していましたが、そこに写っている
編集者は見たことの無い方で、どうも別の
事務所のようでした。

マンガを描かなくなってから、彼の原作が
白都マリの主演で映画化された直後、ぼくの
友人の映画評論家・松田政男氏が2人を
連れて、新宿の酒場にやってきたとき、
偶然再会しています。(『人魚伝説』でしたか…)


>長谷先生

 コメント、ありがとうございます。

 宮谷さんの『闇に流れる歌』『75セントのブルース』が「少年サンデー」に掲載されたのは、1968年か69年のことだったと思います。その頃、フジオプロは、十二荘の市川ビルにあったような記憶があるのですが。

 69年の終わりに、ぼくが鈴木プロの社員として『天才バカボン』の原稿取りに伺ったときは、参宮橋と甲州街道の間あたりの代々木のビルに事務所がありました。

 下落合に引っ越されたのは、そのあとではなかったかと思います。

 ぼくは1970年に、「女性自身」で連載された宮谷さんの『海を見ていたジョニー』(原作・五木寛之)の原稿取りを担当しました。

 10年ちょっと前、小学館漫画賞の授賞式会場で、田中一喜さんに、「すがや君、確か知ってたよね」と宮谷さんに引き合わされました。20年ぶりくらいの再会でした。


作品は69年でしたか!?
では勘違いかなあ~。

彼が下落合に来たのは、マチガイありませんが。
というのは、喫茶店の中で突然泣き出したんですよ。
ビックリしました。
理由ははっきりしないんですが…、泣いて
「長谷さんたちがうらやましい~」なんて
言い出したので、忘れられません。
「浴びるように酒を飲みたい~」とかも
言ってました。精神的に揺れていたんでしょう。
だいたい、ぼくのところに1人で来るのがヘン(笑)

後年、新宿の酒場で再会したときには
もとヤンコミで彼を担当した岡崎英生さんが
彼に送っていた詩の同人誌「gui」(ギ)の
話しが出ました。
「長谷さんの詩も読んでますよ」と…。
ぼくもこの本の同人だったんです。

彼は、白都さんと外に、若者を2名だったか
連れていました。同じ服装なんで、彼等に
聞くと先生の塾生ですと答えました。
私塾みたいなものをやってたんですね。


調べてみましたら70年は、サンデー増刊に
『おれは機関士!』。
本誌には『炎のレーサー』、『密林に叫ぶ歌』の
3作品です。
『海を~』は、その直後からですね。

そういえば、昨年でしたっけ、フリースタイルから
旧作復刻を出すというのを、フランスから出すからと
断ったというウワサを聞いたんですが、どうなって
いるんでしょうか。


>長谷先生

 ちょっと私的な用事で外出していたため、コメントが遅くなりました。

 宮谷さんの近況については、弟さんからメールをいただいたことがありますが、出版のことなどについてはわかりません。

 話題は変わりますが、昨日、急ぎで必要な資料を買う必要があったため、新宿紀伊国屋に出かけてきたのですが、そのついでに、「原画’(ダッシュ)展 少女漫画の世界 PART3 」を覗いてきました。

 そうしたら会場に水野英子先生がいらしたので、『こんにちは先生(ハロードク)』の復刻版を購入して、サインをいただいてしまいました(^_^)。

 水野先生は、とてもお元気そうでした。


お元気でしたか水野さん。
ぼくがお会いした最後は、石巻市の萬画館オープニングの
ときだったかと思います。
帰りは、彼女の息子さんとおしゃべりしたんですが…。



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