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『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(4)

●アシスタントも楽じゃない

 アシスタント稼業を始めてから一ヶ月半が過ぎた頃、ぼくは高校の卒業式のために家にもどることになった。
 ところが、この日は、ちょうど「少女フレンド」の締切だった。朝まで原稿を描いても終わらないため、そこで仕事を一区切りつけさせてもらい、ぼくは一睡もしないまま、朝一番の東海道新幹線で帰郷した。
 家に寄って学生服に着替え、母校に向かう。
 卒業式といっても、ぼくはもう、アシスタントとして仕事をはじめていた。一足先に社会人のはしくれにつらなったという意識もあって、進学が決まった大学の話をする同級生たちが、少し子供っぽく見えたりしたものだった。
 卒業式は、半数くらいの生徒しか出席していなかった。各地の大学を受験するために、留守にしている生徒が多かったのだ。
 卒業式が終わると、一年生の女の子が花束をくれた。連絡先を教えてほしいといわれたが、あいまいな返事をしてごまかした。マンガ家のアシスタントになったのはいいが、この仕事がいつまでつづくのか、まるで自信がなかったからである。アシスタントをクビになって、こっそりと郷里に舞いもどることだってありえるのだ。そんなことを考えると、とても東京の住所など教えられなかった。
 家にもどったぼくは、母が用意してくれてあった赤飯をかきこむと、すぐに駅に向かった。東京では先生が、ひとり徹夜で原稿を描いている。その手伝いをしなくては……と思うと、つい早足になった。
 駅に着くと、跨線橋の階段の下で、二年生の女の子がひとり、ぼくを待っていた。ぼくが読書好きだというのを知っていて、在学中も、ときどき純文学の本などを貸してくれていた。
「これ電車の中で読んでいってください。卒業のお祝いのかわりです」
 手わたされたのは、北杜夫の本だった。

 東海道本線と東海道新幹線を乗り継いで東京にもどり、先生の家に駆けつけると、先生は休んでいた。奥さんが、ぼくにも、少し寝てきたらという。結局その日の仕事は夜からになった。
 高校を卒業しても、卒業したという実感が湧かなかった。もちろん感激などもない。それも、在学中からずっと、気持ちが東京に向いていたせいだろう。やっと肩の荷がおりた、というのが正直な気持ちだった。
 まもなく、やはり高校を卒業した細井雄二が、江波先生のところにやってきた。
 彼の自宅は三鷹にあるが、ふだんは、ぼくと同居することになった。
 四畳半のアパートに男がふたりで寝泊まりするのだから、むさ苦しいことこのうえない。
 仕事は、「少女フレンド」の連載が終わったと思ったら、すぐに「少年サンデー」で新連載がスタートした。あの『ちかいの魔球』と同じ福本和也氏原作の野球マンガだった。
 週刊誌の連載のほかに何本かの月刊誌の連載も加わって、ぼくたちは、アパートの部屋には、ただ眠るだけのために帰るような状態になった。
 たまの休みの日には、細井は三鷹の実家へ洗濯物を抱えて帰っていく。ぼくの方は、部屋の外にあった流し場で洗濯だ。ため込んだ衣類を洗うだけで、あっというまに一日は過ぎていった。
 三ヶ月ほどが過ぎたとき、細井がアシスタントをやめたいと言い出した。
 細井は、もともと、あすなひろし氏の絵が好きで、あすな風の繊細なタッチのマンガを描いていた。先生が「少女フレンド」で怪奇マンガを描いているときだと、出番も多くあったのだが、劇画タッチの野球マンガでは、その繊細な線が裏目に出ることもあった。
 ぼくの方は、アシスタントでも食いっぱぐれがないようにと、劇画からギャグマンガまで、いろいろなマンガ家の絵柄をまねていた。いまさら田舎には帰れない……という思いが強かったからである。おかげで、迫力ある劇画を描く先生にも、少しは気に入られるような絵を描けるようになりつつあるところだった。
「うーん……でも、いまやめたら、迷惑がかかるしさ……」
「しかたないよ。かわりに言ってやるからさ」
 ぼくは、渋る細井をせきたてて、先生の家にいき、事情を説明した。
 先生も、すぐに納得してくれて、細井は退職することになった。
「困ったことがあったら、連絡しろよな。うちには、ひとりくらいだったら寝るとこもあるしさ」
「うん」
 そうは答えたものの、そんな気があるわけがない。先生のところで腕を磨いて編集者に認められ、一日も早くデビューを果たすのだ--ぼくは本気でそう考えていた。
 しかし、その決意も、短期間でぐらつくことになった。先生が「少年サンデー」で連載していた野球マンガのアンケート結果が思わしくなく、十回で連載が終了することになってしまったのだ。
 しかも他の連載までバタバタと終わり、残るは月刊誌が一誌だけとなった。こうなると、仕事は月のうちに三日か四日だけ。マンガ家の野球大会やボーリング大会のほうが忙しくなっていった。
 先生が所属するマンガ家の野球チームで欠員が出ると、そのたびに穴埋めに駆り出された。セカンドを守っているときに、猛然と盗塁を敢行してきたちばてつや氏に、手をスパイクされたこともあった。
 ベテランの貝塚ひろし氏が、仕事があまりにも忙しくなったせいでノイローゼ状態になり、失踪してしまうという事件が発生したのも、この頃のことだ。
 創刊してから間もない「少年ジャンプ」でも貝塚氏は連載作品を持っていた。このままでは貝塚氏のページが白紙になってしまうことになる。あわてた編集部が、急いでピンチヒッターに立てたのが本宮ひろ志さんだった。本宮さんは、ぼくが入る直前まで、江波先生のところでアルバイトとして仕事を手伝っていた。
 本宮さんは、地下鉄工事をして金を貯めては、その金がつづくあいだはマンガを描き、持込みを繰り返していたが、さっぱり売れずに腐っていたらしい。
 そこにピンチヒッターの仕事が飛び込み、張り切って描いた作品が『男一匹ガキ大将』だった。
 代役のはずだった『男一匹ガキ大将』は、予想外の人気を集め、あっというまに巻頭カラーを飾るほどのヒット作となった。
 そのせいか、やはり野球にきていた本宮さんは、ニコニコと顔をほころばせていた。
「活版でもカラーでも、原稿料は、ずっと一ページ千円だったんスけどね、編集者に値上げしてくれって言ったら、一気に七千円にしてくれたんスよ」
 ぼくは、そんな言葉を脇で聞きながら、やはりマンガ家はチャンスの職業なんだと確信した。
 しかし、チャンスもあれば、それを失うこともある。そんな厳しい現実を知るのは、この直後のことだった。
 ぼくがアシスタントをしていた江波先生は、仕事が減りはじめていた割には、野球にボーリングにとノンキだった。しかし、先生はノンキでも、家計を預かる奥さんが、次第にカリカリしはじめたのだ。
 すぐに夏がきた。
 仕事がある日なのに、先生の家に出かけても、今日はまだネームが入っていないからと言われ、トボトボとアパートに帰る日がほとんどだった。
 ボンヤリしていてもしかたがないので、やはりアシスタントをしている「墨汁三滴」の仲間のところに遊びにいくことにした。
 菅野誠がアシスタントをしている石森章太郎先生の仕事場にいくと、週刊誌が五本、月刊誌数本の仕事のために、アシスタントたちは青ざめた顔で机にへばりついていた。
「ヒマでいいよな」
 シャカシャカと『リュウの道』の原稿にペンを走らせながら、菅野が言う。
「おれなんか、この見開きのバック、昨日、徹夜で描いたのに、先生に直しを出されてさ。切り貼りして描き直してるんだぜ」
「忙しい方がいいよ。こっちなんか、することがないんだから」
 ぼくたちが喋っていると、仕事場で、やはり徹夜で原稿を待っている編集者たちが、じろっと睨みつけてきた。
 齊藤ゆずる氏のアシスタントになった田村仁、近藤雅人という同人誌仲間のところにも遊びにいった。齊藤先生は、そんなに仕事は多くなかったが、人のめんどうを見るのが好きで、自分のアシスタント以外にも、友人のマンガ家に仕事場の机を貸していた。しかも、居候のマンガ家の方が、仕事が忙しいのだという。居候のマンガ家は、壁に「一秒が金儲け」という標語を書いた紙を張りつけていた。
 マンガ仲間のところで話すことは、やはり業界の噂話になる。
 --『巨人の星』や『男の条件』といった連載で徹夜の連続の川崎のぼるさんのところでは、編集者が差入れしたスタミナドリンクの箱が山積みになっていて、アシスタントは、それをジュース代わりに飲んでいる……。
 --川崎さん自身も、編集者が見張っているために眠る時間もなく、すっかり胃をこわし、机の脇に置いた洗面器にゲーゲーと吐きながら、マンガを描いている……。
 --原稿が落ちそうになった川崎さんの窮状を救うため、永島慎二さんがアシスタントを連れて応援に駆けつけ、原稿を間に合わせた……。
 そんな「忙しいマンガ家」の話ばかり聞いていると、次第に、みじめになってきた。

「やめさせてもらえないでしょうか?」
 思いきって先生に伝えたのは、一九六九年七月二十日のことだった。
 なんで日付まで憶えているかというと、アポロ11号の月面着陸が、この日だったからである。
 アパートにテレビもなかったため、ぼくは近所のラーメン屋に出かけて冷やし中華をすすりながら、月面から送られてくる映像を見た。その足で先生の家に向かい、退職の話を切り出したのだ。
「そう言ってくれると、助かるのよね」
 先に返事したのは、横に立っていた奥さんだった。
「おいおい、それじゃ、菅谷くんの立つ瀬がないじゃないか」
「だって、しかたないでしょ。仕事がないんだから」
 そう言われては、先生も、返す言葉がない。
 先生ほどの腕を持っていて、仕事がこないはずはなかった。しかし、ただ腕があるだけでは、仕事が来ないのもわかるようになっていた。人気のあるなしだけでなく、マンガ家にも企画力や営業力が必要なのだ。石森先生や、ちばてつや氏のところでは、出版社との交渉や、仕事のスケジュールを管理し、テレビ化の企画なども進めるマネージャーがいた。当然、プロダクションも会社組織になっている。
 マンガの世界も、職人肌では通用しなくなりつつあった。マンガというメディア自体が、職人主導から、ビジネス主導の世界に変わる転換期でもあったのだ。
 退職はOKになったものの、その後のあてがあったわけではない。郵便局で毎月五千円ずつ貯金していたが、仕事がない分だけお金を使う機会も多くなっていた。本当なら半年で三万円貯まっていなければいけないのに、実際の貯金は、二万円ちょっとに減っていた。
 これではアパートも借りられない。いまのアパートは、先生が借りてくれたもので、アシスタントをやめたら、出ていかなければならないのだ。
 だからといって、あてはない。もちろん田舎に帰るのもくやしかった。
 ぼくは、考えあぐねた末に、ワラをもつかむ気持ちで、細井雄二の家に電話をかけた。


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コメント

富士市で1年ほど働いていました。跨線橋の階段って、吉原駅ですよね? 思い出します。
あ、わたし以前、高円寺の飲み屋でご一緒させていただいた今野の弟子です


>おおつかさん

 残念ながら、吉原駅ではなく、富士駅です。

 今野さんのお弟子さんって、空手のでしたっけ……?


富士駅の方でしたか。最近はあちらの方が圧倒的に栄えてますよねー。
空手の弟子です。すがやさんとは、同時期にデータハウスと仕事をしていたらしいですよ(笑)


>手わたされたのは、北杜夫の本だった

ああ時代ですな~
マンボウ青春期だろうか


>おおつかさん

 データハウスは、うちの会社と同じ税理士さんで、それがご縁でおつきあいさせていただきました。変な企画を出すと喜んでくれる面白い社長でした。

 最近、富士駅のあたりも寂れてますよ。やはりどこも同じで、クルマ社会になっている関係でしょう。同級生がやってた酒屋兼立ち飲み屋がなくなって、また寄るところが減ってしまいました。

>HHGさん

 確か「遥かな国遠い国」だったはずです。

 北杜夫作品では、芥川賞受賞作の「夜と霧の片隅で」が衝撃的でした。



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