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『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(6)

●編集プロダクションに就職

 十月に入ってすぐ、細井の家に、マンガ家の清つねおさんから電話がかかってきた。
 清さんは、ぼくの出身地、静岡県富士市に隣接する富士宮市の出身で、地元の高校を卒業したあと上京し、石森章太郎、森田拳次両先生のアシスタントを経て独立したギャグマンガ家だった。
『少年サンデー』や『まんが王』などに作品を発表する恵まれたデビューを飾ったが、すぐに身体をこわしてしまい、郷里の病院に入院することになった。マンガ家志望だったぼくを、入院中の清さんに会わせてくれたのは、清さんの家の近所に住むひとつ年上の女子高生だった。
 その後、退院して再上京した清さんは、鈴木プロというマンガ専門の編集プロに所属し、マンガやカットの仕事を手伝っていた。
 鈴木プロは、「少年キング」や「COM」の編集者としてマンガ界で知られていた名物編集者の鈴木清澄さんが、虫プロ商事を退職して設立した〈日本初のマンガ専門編集プロダクション〉だった。

 鈴木さんには、「墨汁三滴」の仲間といっしょに「COM」の編集部を訪ねたときに会っていた。一年ちょっと前、高三の夏休みのことだ。
 鈴木さんは、「墨汁三滴」に描かれたぼくのマンガを見て、「若さがないなあ……」といった。ぼくのマンガが、ロケットやらロボットが出てくる〈娯楽作品〉だったせいである。
「COM」や「ガロ」には、若い新人による多数の実験作が掲載されていたし、同人誌にも、やはり既成のマンガ作品とは一線を画すような前衛的な作品が収録されていた。
 商業誌に掲載されている娯楽作品のできそこないのようなマンガを描くぼくは、こころざしが低いと思われたのにちがいない。もっともぼくは、それでもかまわなかった。ぼくにとってマンガとは、生活するため、稼ぐための手段だったからだ。
 まだ設立されて日の浅い鈴木プロは、劇画ブームやコミックス・ブームの追い風を受け、猫の手も借りたいほどに忙しくなっていた。そこで猫の手……いや、人手さがしを頼まれた清さんが、ぼくに声をかけてくれたのだ。清さんは、ぼくの家に電話をかけて、母から細井家のやっかいになっていることを聞いたとのことだった。
 ぼくは、清さんの誘いを受けることにした。細井の家にいつまでも居候しているのも心苦しかったし、編集の仕事ではあるが、マンガ業界の片隅で働くことに魅力があったからだ。
 とりあえず池袋にあった鈴木プロの事務所に出かけ、鈴木社長の面接を受けた。
 社長は、「菅ちゃん(菅野誠)の仲間で、ロボットのマンガを描いてたね、確か」と、ぼくのことを憶えていてくれた。
「あんなマンガじゃプロにはなれないから、うちで編集の勉強をして、編集で身を立てるといい」
 社長にいわれて、ぼくは、はあ……と力のない返事をした。反発したい気持ちはあったが、それよりも生計を得るのが先立った。
 月給は2万5000円。残業代はなし。保険も年金もないとのことだったが、それが何を意味しているのかもわからなかった。
 その条件でかまわないというと、すぐに社長から就職のOKが出た。
 三鷹の細井の家からでは、池袋まで通うのは大変なので、近くにアパートを探すことにした。
 新しく借りたアパートは、西武池袋線で池袋から2駅目の東長崎。住所は豊島区千早町で、横山光輝先生のお宅から歩いて5分ほどのところだった。
 引っ越し荷物は、細井の兄さんがライトバンで運んでくれ、また、ひとり暮らしがはじまることになったのだ。
 荷物は布団一組に、衣類の入ったベビーダンスとコタツ、そしてアルミスチールの本棚がひとつずつ。細井の兄さんに手伝ってもらって部屋に荷物を運び込みにいくと、部屋の畳がない。押し入れを開けると、押し入れの床板もない。
 大家に事情を聞くと、前に住んでいた夫婦が、だらしのない使い方をしていて、畳と押し入れの床が腐ってしまっていたのだという。畳表だけ替えればいいと思っていたら、畳を新しく入れ替えなくてはいけなくなり、押し入れの床も修理することにしたという。
 これでは寝ることもできず、その日の夜は、従兄弟のところに泊めてもらうことにしたが、なんだか、先が思いやられるような出来事ではあった。


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コメント

自分は実家が柳沢ですが何か関わりありますかね? 無いですよね(^O^)



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