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『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(11)

●ライター見習い

 鈴木プロでは、マンガの雑誌や単行本の編集だけでなく、マンガに関連したことなら、どんな仕事でも請け負っていた。
「ちょっと、すがやクン。キミも手伝ってくれないか」
 ある日、突然、社長から命令されたのは、電話インタビューの仕事だった。「週刊女性自身」から依頼されたもので、その頃ちょうど話題になっていた永井豪さんの『ハレンチ学園』に対する識者の声を集めるものだった。そう、あの「スカートめくり」が、子どもたちの教育上よろしくない、ということで大問題になっていたことから、エライ先生方の声を集めることになったものだ。
 ぼくが担当したのは、『フイチンさん』で知られる上田としこ氏や、永井さんのマンガの擁護者でもあったカバゴンこと教育評論家の阿部進氏。いずれも『ハレンチ学園』の「スカートめくり」には否定的なコメントではなかった。そのほかにも数人の識者に電話でインタビューし、そのコメントの要点を200字詰め原稿用紙にまとめていった。
 社長も電話でコメントを取っていたのだが、ぼくがまとめた原稿を見せると、
「はじめてなのに手際がいいじゃないか。だったら、こっちの分もやってくれ」
 といわれ、社長が担当するはずだった人たちへのコメント取りまでやることになった。

 といわれ、社長が担当するはずだった人たちへのコメント取りまでやることになった。
 まとめたコメントの原稿は、池袋駅から都電に乗って、音羽の光文社の近くにあった同社の別館に届けにいった(まだ都電が走っていた)。ホテルのような建物で、指定された和室には、テーブルに資料と原稿用紙、そして、ちびた4Bの鉛筆を山のように並べた中年の男性がいた。
 この人が記事の最終原稿をまとめる人で、週刊誌の業界ではアンカーと呼ばれていた。案内してくれた「女性自身」の編集者の話によれば、このアンカー氏は、作家志望で、歴史小説の大家・海音寺潮五郎氏の弟子とのことだった。
「よろしく、お願いします」
 座布団にすわり、こちらに背中を向けているアンカー氏の脇に、ぼくは部屋の上がりかまちから、おそるおそる原稿の束を差し出した。
 さっと原稿の束を取ったアンカー氏は、ぼくが書いたコメント原稿の文章を、赤鉛筆で囲っていく。どうやら本番原稿に使えそうな部分に印をつけているらしい。
「これキミが書いたの?」
 アンカー氏が、背中を向けたまま訊いてきた。
「はい。初めて書いたんですが……」
「ふーん……。そのわりには、うまく書けてるじゃないか。このコメント、話し手の口調も、よく出てる。どれも、そのまま使えるよ」
 どうやら褒められているようだった。電話インタビューで得たコメントも、なるべく、その方たちの口調を活かした話し言葉でまとめてあったのだが、マンガでネーム作りをしていた経験が、こんなところで役立ったものらしい。
 こんなことが何度かあって、社長はぼくに、ライターの仕事もまわしてくるようになった。まだ隔週だった「少年チャンピオン」の柱の原稿(「豆知識」のようなもので、100字前後で100本以上書く。「世界の国旗100」を書いたときには、国旗の絵も必要だといわれて、「現代用語の基礎知識」にカラーで出ていたの世界の国旗を、トレペに丸ペンと墨汁でトレスした)、「COM」の「マンガ家短信」のページなどだ。
「マンガ家短信も、マンガ家の先生方に電話で近況をたずねたり、決められたテーマに沿ってインタビューした内容を文字原稿でまとめるものだった。マンガ家のデビュー作を特集する回があり、真崎守氏にデビュー作について質問したところ、『地獄狼』という青年劇画誌に掲載した作品の名前が返ってきた。
「あれ、先生のデビュー作は、セントラル書房から出ていた『街』の新人賞受賞作じゃないんですか?『雨の白い平行線』と、もう1作が同時受賞していたはずですが。その後に、東京トップ社から『燃えてスッ飛べ!』という永島慎二先生原作の作品も描いていませんでしたか……?」
 と問いつめると、渋しぶ、本当のデビュー作の名前を出してもいい、ということになった。もしかすると「真崎守」名義でのデビュー作と、かつての「もりまさき」名義の作品とは、区別して考えていたのかもしれない。


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