モバイルコラム

** No.005 **
座右の書
(99/07/24)
 パソコン通信をはじめて2年ほどが過ぎた1987年の4月、ぼくはニフティサーブで「モータースポーツ・フォーラム」(現オートレーシング・フォーラム)を開設した。コンピュサーブの日本代理店でもあったNIF(現ニフティ)から、コンピュサーブの「モータースポーツ・フォーラム」でスタッフになっていた経歴を活かして、モータースポーツ関連のフォーラムを運営してみないかと声をかけられたからだ。
 それまでアスキーネットで勝手連的にレース情報の提供を続けていたぼくは、即座にOKして、早速、準備にとりかかることにした。
 とはいえ、フォーラムの運営には多少の不安もあった。それまで体験していたアメリカのザ・ソース(その後コンピュサーブに買収される)のSIG(*1)やコンピュサーブのフォーラムでは、何か問題が起きたときでも、SysOp(*2)という運営者が、公平かつ公正な態度で、テキパキと処理していたが、同じようなことがぼくにできるのかどうか心許なかったのだ。
 新しいフォーラムでは、コミュニケーションもさることながら、レース情報、とくに速報の掲載に力を入れるつもりでいた。そこに掲載する情報もまた、迅速かつ正確でなくてはならないのだ。
 ところがぼくは、一介のマンガ家でしかなく、ジャーナリズムの訓練を受けたこともない。とりあえず試行錯誤しながらフォーラムをスタートさせたものの、レース速報やリポートを掲載し、同時にメッセージを書き込む会員たちの交通整理をしていく作業は、かなりしんどいものになった。何よりも心配だったのは、はたして自分の運営が、公明正大なものかどうか確信が持てないことだった。
 サーキットに取材に出かけたとき、取材を通じて知り合った読売新聞運動部のA記者に、そんな悩みを打ち明けたことがある。するとA記者は、「これを読んでみるといいよ」と、1冊の本をプレゼントしてくれた。
『ワシントン・ポスト記者ハンドブック』(ロバート・A・ウェブ=著/村田聖明=翻訳・解説/ジャパンタイムズ 1987年9月5日初版/2,200円)というのがその本で、アメリカの首都ワシントンDCで発行される有名なワシントン・ポストの記者用マニュアルだった。
 日本の新聞社、通信社からも記者ハンドブックが発売されているが、用字用語事典的なものが大半だ。しかしワシントン・ポストのものは、最初から「基準と倫理」「新聞の法律と公正さ」「オンブズマン」「品位と感性」といった項目に多くのページが割かれている。
 同紙の記者がヤラセ記事でピュリツアー賞を受賞し、それが発覚した過去があったからかもしれないが、そこには、名誉毀損などに注意しながら、いかにして公正中立な記事を書いていくかが、繰り返し述べられている。これも人権やプライバシーの意識が強いアメリカだからこそ、必要不可欠な配慮なのだろう。
『大統領の陰謀』を暴くことができたのも、このような「ジャーナリズム精神」あればこそだったのではないか。そんなことさえ考えてしまうほどである。
「ユーザー同士が直接対峙することの多いパソコン通信では、アメリカの基準を参考にするくらいで、ちょうどいいはずだ。パソコン通信で日本人の人権や市民権、プライバシーの意識も大きく変化していくはずだからね」と、英語がペラペラのAさんはアドバイスしてくれた。
 アメリカ人にとっての公明正大や中立とは、天にまします神との契約でもあるはずだ。しかし、そのような神を持ち合わせないぼくは、「ワシントン・ポスト記者ハンドブック」を座右の書とし、不安が生じるたびに開くことにした。
 たとえば第1章のはじめには、こんなことが書かれている。
 自由世界の首都の独占朝刊紙としてわれわれが受けついだ権力にはつぎのような特別な責任が伴うことを充分認識している。

  ○声なき声を聞くこと。
  ○いかなる尊大な態度も避けること。
  ○丁重さと率直さとを持って社会にのぞむこと。
 パソコン通信やインターネットで書き込みする途中、不安になると、すぐにこの本を開き、自分の胸に手を当ててみる。果たして自分の文章が、公正か、中立か、と。座右の書どころかバイブルにも近い存在なのだ。
 いまも、あちこちの掲示板に書き込みをしているのだが、マンガ家や小説家らしくない――つまりマットウで面白くない――のだそうで、もう少し気のきいたことを書いたら……とアドバイスしてくれる人もいた。
 しかし、ぼくにとってのパソコン通信やインターネットは、実社会の延長であり、ノンフィクションの世界である(*3)。芸を披露する義務もなければ、トリックスターになる必要もない。
 パソコン通信やインターネットを始めた人たちの中には、不愉快なトラブルに巻き込まれたおかげでネットの世界に失望し、姿を消していった人も少なくない。でもぼくは、ニフティサーブでもインターネットでも、いまだに現役をつづけている。これもみな『ワシントン・ポスト記者ハンドブック』を読んだおかげだろう。
 なお書き添えておくと、この本は、英文を書くための参考書としても、きわめて有効である。
(*1)SIG=Sperical Interest Group。同じ趣味嗜好の人たちの集まる場。ニフティサーブでいえばフォーラム。
(*2)SysOp=System Operatorの略。本来はシソップ、またはサイソップと発音する。
(*3)ゲームなどのフィクションを楽しむ場所では、もちろん、そこの主旨にしたがっている。
(END)
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