モバイルコラム

** No.010 **
マンガの自殺
(99/08/24)
 最近、マンガが面白くないという声をよく耳にする。それも大人向けから子供向けまでだ。そのせいか、マンガの雑誌、単行本の売れ行きも下降気味らしい。
 なぜマンガが面白くなくなったのかといえば、その理由は、いくつでもあげられるが、最大の理由は「マンガがむずかしくなった」ことだろう。
 そもそもマンガというメディアは、「わかりやすい」ことが最大の武器だった。「一目でわかる」から、頭を使う必要もなく、誰もが気楽に読むことができた。
 ところが最近は、マンガにも読み方が必要だそうで、マンガの読み方の参考書も出れば、あるいはNHKの「BSマンガ夜話」に代表されるように、マンガのメインストーリーそのものよりも、些細なディテールにこだわりを見せることが、あたかもカッコイイ読み方であるかのように思われているフシもある。
 いつからマンガは、こんな小むずかしいものになってしまったのだろう? そう考えたとき、まっ先に思い浮かぶのが、ぼくの師匠の石ノ森章太郎である。ぼくが中学生のときに刊行された『マンガ家入門』で、『竜神沼』という作品に応用された映画の技術が紹介され、それまで単純なマンガを描いていたマンガ少年・少女に大ショックを与えた。マンガ家というのは、ここまで考え、計算しながらマンガを描いていることに衝撃を受けてしまったのだ。
 直後に創刊された「COM」で、石ノ森章太郎は『ジュン』というセリフなしの実験マンガを描き、多感な思春期にあったマンガ少年・少女を再びトリコにした。
 少し遅れて同じ「COM」でデビューした宮谷一彦が、やはり前衛的な手法を使い、かつ写真のようにリアルな絵を描くことで、劇画の世界を一変させた。いまはスクリーントーンの柄にまでなっている車線の掛け合わせも、宮谷一彦が「発明」したものだ。
 そして、1970年代になって大友克洋が登場する。『童夢』あたりは、まだ一部のマニアや評論家に認められていただけだったが、『アキラ』でブレイクし、以後、大友スタイルの「描線」が、マンガの世界のスタンダードとなる。最近のアニメ絵も、髪や目の描き方は違っていても、細い線を多用し、衣服のシワや煙なども極細線で細密に描写していく手法は、大友スタイルを踏襲したものだといっていいだろう。
 その大友スタイルは、青年誌だけでなく、少年誌、児童誌にまで進出し、すっかりマンガの世界のスタンダードとなった観がある。
 しかし、大友流の「リアル」を追求するのはわかるのだが、そのリアルさは「線」のみに集中し、たとえば「構図」についてはリアルさが欠けているものが非常に多い。
 実は大友作品も仔細に見てみればわかるのだが、そのリアルさは、描線だけではなく、構図にも及んでいるのである。ものごとを他人に伝えるときには「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」の「5W1H」が大切だとよくいわれるが、大友作品は、これが一目でわかるのだ。徹底的にディテールを描き込む「具象」と、狭い画面を広く見せる構図とによって、登場人物の置かれた状況が「一目でわかる」ようになっているのである。(次ページに続く)

0.つづき
1.旧コラム一覧
2.i-Modeトップ