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** No.012 **
マンガの進化
(99/09/22)
 ここに書いたマンガのことがインターネットの人気サイトに取り上げられたせいか、マンガのことについて、もっと書けというリクエストのメールが飛んできた。とはいえ最近のマンガについては、喫茶店で読むていどで、さほど詳しいわけではない。そこで古いマンガについての考えを述べてみることにする。
 現在のストーリーマンガの原形を作ったのが、手塚治虫であることは論を待たないだろう。1946年に発表された『新・宝島』は、それまで舞台の登場人物のように、左右にしか動かなかったマンガに、クローズアップやパンといった映画の技術を応用し、立体感とスピードを与えることに成功した。おそらくディズニーアニメの影響も大きかったことだろう。
 手塚マンガで育った世代(トキワ荘世代)のなかで映画的手法を突き詰めていったのが石ノ森章太郎だった。石森が1960年に発表された『マンガ家入門』は、当時のマンガ少年少女のバイブルとなり、1970年代以降に活躍するマンガ家を生み出す原動力となった。しかもその影響は、男性マンガ家よりも女性マンガ家のほうに継承された。
 1960年代までのマンガは、文学や映画と比較すると下等な大衆娯楽メディアであり、子供の読むものと相場が決まっていた。表現技術に関しても、いかにして映画に近づけるかが最大のテーマになっていた。また、マンガで使われる用語にしても、前述の「アップ」「パン」のほか、「モブシーン」「カットバック」「モンタージュ」などに至るまで、映画用語がそのまま使われていた。
 表現技術においては映画に追いつけ追い越せが合い言葉のようにもなり、「ガロ」と「COM」の登場によって、マンガは文学をも志向するようになった。つげ義春や石森章太郎、松本零士が、娯楽マンガ誌では描けない実験的ともいえる作品を発表しはじめたのが、この頃だ。また、同時期の貸本劇画の世界には、私小説マンガともいえる永島慎二の『漫画家残酷物語』シリーズがあり、旭丘光志の社会派劇画もあった。
 このようななかで「COM」の新人賞から登場したのが宮谷一彦だった。私小説劇画を追求する一方で、娯楽雑誌では大藪春彦調のハードな内容のアクション劇画を描き、「少年サンデー」では石原慎太郎や五木寛之の作品世界のような青春劇画を発表した。
 宮谷一彦の登場は、1960年代終盤から70年代序盤にかけて、作画面でも内容面でも、まさに革命となった。作画面でいえば、いまはすっかり当たりとなった斜線の掛け合わせやスクリーントーンの重ね貼りという新しい技術をもたらし、さいとうプロ主体の貸本劇画の延長にあった「劇画のリアル」を一変させた。
 ぼくは宮谷本人から直接聞いたことがあるが、斜線を掛け合わせて渦巻きのようにウネウネとくねらせる描法は、永島慎二のアシスタント出身の大山学と二人で、「思春期の少年の煩悩を表現できる背景の効果はできないものか……」と話しながら作ったものなのだそうだ。この新しい描法は、あっというまにブームとなり、あらゆる劇画、マンガの背景に採り入れられ、「思春期の煩悩」を表現するものではなく、ただの陰影を表わすものに変化していった。いまではスクリーントーンの模様にまでなり、ただの記号と化している。
 宮谷の登場は、もりたじゅんをはじめとする当時の「りぼん」のマンガ家たちにも影響をあたえることになり、少女マンガの質をも変化させることになった。
 このようなマンガの進化の背景には、マンガの読者層の高齢化が大きな原動力となっていた。1968年の「ビッグコミック」を筆頭に、「ヤングコミック」「プレイコミック」と相次いで青年コミック誌が創刊されたことが、新しい劇画、マンガの登場を容易にした。
 そのような流れの中で登場したのが大友克洋だった。「漫画アクション」に発表された『童夢』をはじめとする初期の作品は、宮谷一彦の影響も受けていたと思えるが、その後、煙や水といった自然物も、線で輪郭を取るアニメにも似た描写法と、ストップモーションの多用による新しいアクションの描写で、現在のマンガ技法のスタンダードとなった。ストーリーマンガの世界では、おそらく大友以降に新しい表現技術は生まれていないだろう。(この項つづく/文中敬称略)
(END)
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