モバイルコラム

** No.011 **
マンガの引用
(99/09/01)
「マンガから抜き出したカットも著作物の引用として使用できる」
 社会評論マンガともいえる「ゴーマニズム宣言」(小林よしのり著)の批判本が、同書のマンガのカットを「引用」したところ、小林氏がこれを著作権法違反として訴えていた裁判の判決だ。寡聞にして、このような裁判が行なわれていたことを知らなかったが、ぼくは、この判決は妥当なものだと考えている。「引用」は著作権法にも認められる正当な権利だからである。
 近頃、ぼくのマンガ作品もレトロや懐マンの範疇に入ったようで、雑誌やムックで取り上げられることが多くなった。そんなコラムや記事にマンガのカットを使いたいという問い合わせがくることも多く、なかには掲載料の支払いを申し出てくる編集部もある。
 掲載料については遠慮なくいただいていた時代もあったが、現在は、カットの使用が報道、批評、研究などの「正当な目的」に合致する「引用」であれば、掲載料は辞退させていただいている。作品を書いたり描いたりしたときには「著作権」という権利が発生するが、権利ばかりを主張するのはフェアではないと考えているからだ。
 つい先日も、ぼくの古いマンガについて書かれた文章に、マンガのカットを使いたいとの使用許諾を求める電話がかかってきた。それが評論や研究であるならば「無断引用」でかまわないと、ぼくは返事した。ところが送られてきたゲラを見ると、その文章に出てくるぼくの名前は、「すがやみつる先生」という敬称つき。文章自体は、作者本人でさえ「へえ」と感心するような深読みも含め、充分に批評や研究の範疇に入ると感じられた。そこで編集部には、「先生」という敬称の削除をお願いした。せっかくの文章が、「先生」がついているだけで、ファンレターの延長のように見えてしまうからである。これでは一緒に掲載されているマンガのカットも、批評や研究に付随する「引用」ではなく「利用」になってしまうと思われたからだ。
 マンガの研究や批評と称する文章の中には、単なる感想文やファンレターの延長のようなものから、アラ探しや当てこすりに終始しているだけのものも多い。批評や研究が目的ではなく、いかに自分が古いマンガを知っているかを自慢しているだけの文章も目立つ。
 しかし、たとえば夏目房之介氏のように、マンガの表現技術や技法について、その歴史も含めた研究を続けている人もいる。夏目氏の場合は、ストーリーやテーマに傾きがちな他の評論家の批評とは違い、絵の描き方からペンの使い方といった実作者ならではの視点からマンガの研究に踏み込んでいる。このような研究には「カットの引用」が不可欠だ。たとえそれがマンガの絵であっても、「正当な目的」ならば「無断引用」も構わないはずである。
 マンガの場合、キャラクターの「商標権」と、作品そのものの「著作物」としての権利(著作権)が混同されている一面もある。かつ、長い間、批評や評論とは無縁の大衆娯楽であったがために、マンガ家のほうも批評慣れしていないところがある(つまりウブなのだ)。だから新聞や雑誌で作品が取り上げられると、すっかり舞い上がってしまうし、反対に、ちょっとでも批判されると過剰反応を起こす。インターネットの普及で自ら情報を発信(公表)し、それに対する批判を受けた「メディア初心者」が、感情的な反応を示すのと似た構図だともいえそうだ。
 小説などは、批評や評論にさらされることで、その質を向上させてきた一面も持っている。マンガについても同じことがいえるだろう。本当にマンガの質が向上し、文化にもなるのなら、批評や研究活動もまた不可欠なのだ。そのためには、カットの引用も許されるべきであるはずだ。ただし前回のコラムでも述べたように、批評や研究によってマンガの質が上がっていくことは(あるいはオタク的な読まれ方しかされなくなることは)、マンガ本来の大衆娯楽という本質から遊離していくのでは……なんてことを心配することもある。(END)
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