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『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(1)

●少年月刊誌の全盛時代

 ぼくが生まれ育った静岡県富士市は、北に富士山、南に駿河湾を望む温暖な土地で、豊かな地下水を利用した製紙業が盛んな工業地帯でもあった。
 昭和二十五(一九五〇)年生まれのぼくは、幼い頃から絵を描くのが好きで、幼稚園に入る前からマンガ雑誌を見ては、マンガの主人公たちの似顔絵などを描いていたらしい。
「うちの息子は、マンガで字を憶えた」と母がよく言っていたが、幼稚園の頃に読んでいたマンガの記憶は皆無にちかい。かろうじて『あんみつ姫』を読んだことだけを断片的に憶えている。
 マンガそのものに興味を抱きはじめたのは、小学校に入ってからだった。
 ぼくが小学校に入学した昭和三十一(一九五六)年頃は、月刊少年マンガ誌が子供たちの娯楽の王様で、本誌の厚さや別冊フロクの数を競う過激な競争がはじまっていた。
「少年」(光文社)、「少年クラブ」「ぼくら」(ともに講談社)、「幼年ブック」「おもしろブック」(ともに集英社)、「冒険王」「漫画王」(ともに秋田書店)、「少年画報」(少年画報社)、「痛快ブック」(芳文社)などが、太平洋戦争終結直後に生まれたベビーブーマー――いわゆる団塊の世代を読者として獲得するために、鎬{しのぎ}を削り合っていた頃だ。

 この前年に連載がスタートした『鉄人28号』(横山光輝/「少年」連載)が、子供たちのあいだで人気になっていた。富士山麓の工業都市に住むぼくたちのあいだでは、同じ「少年」に連載中の『鉄腕アトム』よりも、圧倒的に人気が高かった。おそらく破壊性、暴力性が、『アトム』に勝っていたからだろう。小学一年生のとき、クラスメイトと一緒に、教室のうしろにある黒板に「鉄人27号」や「鉄人28号」の絵を描いては遊んだものだった。このとき一緒に「鉄人」の絵を描いていた金森俊昭は、のちに、ぼくがマンガ家を志望するきっかけをつくることになる。
「少年」には、『ナガシマくん』(わちさんぺい)、『ポテト大将』(板井レンタロー)、『ストップ兄ちゃん』(関谷ひさし)といった人気マンガがひしめいていた。
「少年画報」の人気マンガは、『赤胴鈴之助』(武内つなよし)、『まぼろし探偵』(桑田次郎)、『ビリーパック』(河島光広)など。
「冒険王」では、『イガグリくん』(福井英一/ありかわ旭一)や『ジャジャ馬くん』(関谷ひさし)に人気が集まっていた。
 マンガを読むのは大好きだったが、小学五年生の頃までは、ぼくは、ただの読者であり、マンガを描くようなこともしなかった。

●テレビはなくても映画があった

 ぼくが小学生だった昭和三十年代の大きなできごとといえば、やはりテレビの隆盛だろう。
 しかし、昭和三十年代の前半は、テレビはまだまだ高価な電化製品で、近所の子供たちは、自動車修理工場の従業員休憩所に集まっては、『月光仮面』や『七色仮面』を見せてもらっていた。
 小学校も学年が進むにつれて、テレビは加速度的な普及を遂げていくが、わが家にはテレビが入る気配もない。そんな経済的ゆとりは、どこを探してもなかったからだ。
 父が自分で経営していた水道工事の会社を倒産させたのは、ぼくが三歳のときだった。父はどこかに姿を消したままで、ぼくは母と二人で暮らしていた。
 父は、たまに帰ってくることもあったが、そのときは必ず泥酔状態だった。玄関に鍵がかかっているとガラス戸を蹴破って入ってくるため、鍵もかけられなかった。深夜、遠くから酔っぱらった父の怒鳴り声が聞こえてくると、ぼくは毛布を持って、近所の家に避難した。
 母は、昼間は保険や化粧品の外交、夜は映画館で切符のもぎりと、働きづめに働いていた。それでも生活は苦しかった。
 ぼくにとって運がよかったのは、母が映画館で働いていたことだった。顔パスで映画が見られたからである。日活作品が三本立てで上映される中央劇場という名の映画館で、ぼくは、毎週、土曜日になると、観客席に潜り込んではスクリーンを見つめていた。
 石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、宍戸錠たちが活躍した日活の黄金時代である。ぼくは、気にいった映画があると、平日でもかまわずに、学校の帰りにカバンを持ったまま、映画館に飛び込んだ。
 小林旭と赤木圭一郎の映画がかかったときは、平日の学校帰りにも、ランドセルを背負ったまま映画館に寄り、客席の隅でスクリーンに見入っていた。
 同年代の子供たちがテレビの『月光仮面』や『怪傑ハリマオ』や『七色仮面』に熱中していた頃、ぼくは映画館の闇の中で、石原裕次郎や小林旭が映画の中で唄う主題歌を一緒になって口ずさんでいた。
 テレビも一家に一台の時代になりつつあった時代だが、ぼくの家にはテレビがなかった。テレビなど買える経済状況ではなかったのだ。わが家に中古のモノクロテレビが入るのは、東京オリンピックの翌年になってからだ。カラーテレビを買った親戚が、不要になったからとゆずってくれたものだった。
 赤木圭一郎がゴーカートの事故で重体になったときは、ローカル紙に掲載された容態を伝える記事を食い入るように読んでは一喜一憂した。赤木圭一郎の死を知ったときは、まるで身内が死んでしまったかようなショックと悲しみに襲われたものだ。
 赤木圭一郎が事故に遭ったときに撮影していたのは『激流に生きる男』という題名の映画だった。
 女優のなかで好きだったのが石原裕次郎主演の文芸作品でヒロインを演じた芦川いずみだった。清楚で可憐で愛くるしくて、こんな人が姉さんにいたらなあ……なんてことを考えながらスクリーンを見つめていた。
 母が勤める映画館の経営者は、隣の富士宮市にも映画館を持っていた。二軒の映画館は、上映時間をずらしただけの同じプログラムを組んでいた。こちらの映画館で上映が終わったフィルムをバイクで隣町の映画館に運び、あちらで上映の終わったフィルムをこちらの映画館に運んできて上映するのだ。おそらくフィルム代を節約するためだったのだろう。
 ぼくも何度かフィルム運びを手伝ったことがあった。バイクの後部座席でフィルムケースを抱えては、隣町の映画館との間を一日に何度も往復するのだ。小学生のぼくにとっては、ちょっとした冒険旅行だった。
 一九八九年公開の『ニューシネマ・パラダイス』というイタリア映画をテレビで見たとき、ふいに涙が込みあげて止まらなくなった。隣町の映画館との間でフィルム運びをするシーンが出てきたときのことだ。小学生のときに体験したフィルム運びの体験が、つい、画面のシーンに重なってしまったらしい。
 映写室が遊び場になっていたのも、『ニューシネマ・パラダイス』と同じだった。映写技師のお兄さんとも顔なじみになり、成人映画を映写室の小窓から覗き見させてもらったこともある。もちろん母には内緒だったが、小学生には、そこで展開されているシーンの意味など理解できなかった。
 市内で大映と松竹の作品を上映していた映画館が廃業すると、母が勤めていた映画館が、その代替上映をするようになった。日活作品に加え、大映と松竹の作品までもが見られるようになったのだ。勝新太郎の『座頭市』や『悪名』、そして市川雷蔵の『忍びの者』や『陸軍中野学校』のシリーズが好きで、同じ映画を何度も繰り返し見にいったものだ。とりわけ『忍びの者』は、学校帰りに劇場に飛び込んでは、七日間連続、計九回も見た。数が合わないのは土曜日と日曜日に二回ずつ見たせいだ。藤村志保の入浴シーンにドギマギしたのも懐かしい。
 土曜日の夜は、ナイトショーという遅い時間の上映があった。終了時刻は午後十一時過ぎ。それから客席の掃除を手伝うのが週末の夜の日課になっていた。
 まだ封が切られていないキャラメルやチョコレートも、よく落ちていた。暗がりで落としてあきらめたのだろう。ときどき小銭も落ちていて、これらは掃除を手伝うぼくの余録となった。
 ぼくにはテレビはなくても映画があった。毎週三本ずつの映画が、顔パスで見られるのだ。家は貧しくても、あまり苦にせずにすんでいたのは、こんな貴重な体験をしていたからだろう。
 父が戸板に載せられた状態で、あわただしく家に担ぎ込まれてきたのは、ぼくが小学5年生の真冬の朝のことだった。運び込んできた男性たちの話によると、凍てついた深いドブ川の中で倒れているのが、朝になって発見されたらしい。前夜のうちに酔っぱらってドブ川に落ち、頭のどこかを打って動けなくなっていたようだ。冷たいドブ川の水に浸かったまま一夜を明かした父は、この日以来、寝たきりの生活になった。
 父がいなかった頃のほうが、家の中は平和だった。なんとかトイレには立てるようになった父は、身体が自由にならない苛立ちで、母やぼくに当たり散らす。身体が動かないのに酒を呑んでは暴れることもたびたびだった。
「あのまま死んでしまえばよかったのにねえ……」
「あのオヤジが死んだら町内で提灯行列を出してやるのに……」
 近所の人たちが、息子のぼくに、面と向かってこんなことをいうほどに、酒乱で有名な父親だった。少し歩けるようになると、また外に酒を呑みに出ては大騒ぎを繰り返していた。近所の人たちもうんざりしていたのにちがいない。
 父の面倒まで見なくてはならなくなった母は、ぼくが小学校を卒業した年に、調理師学校に入学した。手に職をつけないと、高収入が得られないからといって、母の実家の支援を受け、学校に入ったのだ。この頃には、せめてぼくを高校までは出してやりたい……というのが母の悲願になっていたらしい。
 母は、昼は調理師学校に通い、夜は近所の割烹旅館で働くようになった。その旅館では、市内にある三軒の映画館すべてに、スライド広告を出していた。その関係で、毎週、映画館から招待状が届くのだが、旅館で働く人たちは、忙しくて映画など見にいっている暇がない。そこで招待券は、映画好きということになっていたぼくが、すべて独占させてもらえることになった。
 おかげで母が映画館をやめても、映画館通いがつづけられることになった。それも毎週、三軒の映画館に行けるのだ。どの映画館も三本立てが基本である。毎週九本、年間四百本以上もの映画を見る生活が、高校を卒業するまでつづいたのだ。
 上映される映画の大半は、プログラム・ピクチャーとも呼ばれた大衆向けの娯楽映画だった。
 一九六〇年代後半、日活と大映は凋落の一途をたどっていたが、東映はヤクザ映画が好調で、東宝には特撮とクレージーキャッツと若大将のシリーズがあった。洋画では「007」をはじめとするスパイものや戦争映画、そしてフランスの暗黒街映画{フイルム・ノワール}に夢中になった。
 映画に熱中した理由は別にもあった。母が割烹旅館で働きはじめたこともあって、学校から家に帰った後は、深夜まで父とふたりだけになってしまうのだ。
 六畳二間だけの家で、父が寝ている奥の部屋とは障子で仕切られているだけだった。寝ているだけならいいのだが、始終、誰かをののしったり叫んだりしつづけているのだ。
 父の声を聞いているのが耐えられず、夜になると、すぐに映画館に足を向けた。映画館に行ってスクリーンを見つめていれば、嫌なことを忘れることができたからである。
 それでも映画館は三軒しかない。週のうち三日は映画館で時間をつぶせたが、残りの日は、別のことで気をまぎらわせる必要があった。
 ぼくは、新しい気晴らしを見つけていた。
 新しい気晴らし――それはマンガを描くことだった。小学六年生の終わりに描きはじめたマンガに、さらに熱を入れるようになったのだ。マンガを描いていれば、自分の作った物語の世界に没入できる。父の声も遠くで聞こえるだけになった。ぼくにとってマンガを描くことは、映画を見るのと同様に、現実逃避の行動でもあったのだ。


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