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『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(4)

●週刊少年誌の時代--

 ぼくが中学校に入学したのは、昭和三十八(一九六三)年の春だった。
 中学生になるとクラブ活動がある。必ず何かのクラブ活動に参加しないといけないことになっていた。
 最初、剣道部に入ったが、すぐに物理部に鞍替えした。アマチュア無線というものに興味を持ってしまったからである。
 もともと機械いじりが好きで、ラジオでも時計でも、すぐに分解するクセのあったぼくは、近所でアマチュア無線をやっていた人の家に遊びにいくと、たちまち影響を受けた。ラジオ雑誌を借りてくると、そこに載っていた回路図をもとに、真空管を使ったワイヤレスマイクの組み立てに取りかかったのだ。部品は壊れたラジオをバラして取りはずしたものだった。
 剣道部をやめて物理部に入りなおしたのは、実験室にある工具や計器を借りることができたからである。テスターのような計器は、中学生の小遣いでは買えなかった。
 クズ屋さんからタダ同然で払い下げてもらった中古ラジオから部品をはずしては、アルミのシャシーの上に組み付けていく。マイクも高価で買えなかったため、明治製菓のマーブルチョコを代用にした。筒状のケースの底にクリスタルイヤホーンを入れ、口の部分をガーゼで覆ってマイクの代わりにしたのだ。マーブルチョコには、『鉄腕アトム』のシールがオマケについていたので、マンガ好きでもあったぼくには、一挙両得だった。こうしてぼくはラジオ少年に変身していった。ラジオをイヤホーンで聴くという習慣ができてからは、父の声も、さほど気にならなくなっていた。
 ラジオ作りに熱中する時間が増えてはいたが、だからといってマンガ少年をやめたわけではなかった。
 中学生になると学校給食がなくなり、弁当持参になった。しかし、夜、旅館で働いている母は、朝が遅くて弁当を作る時間がとれず、ぼくの昼食は、毎日パンになった。このパン代を節約して、ぼくは毎週「少年サンデー」と「少年マガジン」を購入するようになった。マンガ雑誌も、すでに週刊誌全盛の時代となっていた。

「少年サンデー」には『伊賀の影丸』(横山光輝)、『大空のちかい』(久里一平)があった。
「少年マガジン」では『ちかいの魔球』(原作・福本和也/マンガ・ちばてつや)が終了し、『紫電改のタカ』(ちばてつや)がはじまっていた。
 月刊誌では「少年」で『サスケ』(白土三平)が人気を呼び、白土三平は「少年ブック」でも『真田剣流』という忍者マンガを連載し、「少年サンデー」には、『イシミツ』という不老不死の薬をテーマにしたオムニバスの忍者マンガを連載した。
 月刊少年誌が最後の残り火を燃やしていた時代でもあった。戦記マンガと忍者マンガ--そして、野球マンガを中心にしたスポーツマンガ。これらが昭和三十八(一九六三)年前後の少年マンガ雑誌の状況だった。
 さいわいにしてぼくは、家で勉強をしろといわれた記憶がない。宿題も家でやっていたのは、小学生のときまでだった。中学生になると宿題は、学校にいってから休み時間にやるものと決め、家ではラジオ作りとマンガ描きに明け暮れていた。
 読む雑誌も増えていた。マンガ雑誌、戦記雑誌、航空雑誌に加え、ラジオ雑誌まで読むようになったのだ。
 この頃の「初歩のラジオ」「子供の科学」(ともに誠文堂新光社)の読書投稿欄には、あきらかにマンガを描いていると思える達者なペンタッチのカットも載っていた。忠津陽子という名前の読者が投稿したマンガは、かわいらしい雪ダルマを描いたもので、年齢は十二歳となっていた。

●ラジオ少年と読書少年の日々--

 中学二年生になると、ますますラジオ作りがエスカレートした。実際にハムをやっている教師が物理部の顧問になったのだ。
 この教師の自宅に押し掛けて、高価だった水晶発振子を貸してもらったり、足りない部品を分けてもらったりもした。そうして作った送信機で電波を飛ばしては、無免許{アンカバー}の通信をしたのもこの頃だ。
 この年――昭和三十九(一九六四)年の最も大きなできごとは、なんといっても東京オリンピックだった。その直前、新幹線も開通し、三波春夫の「東京五輪音頭」のテーマソングに乗って、日本中が沸いていた。
 オリンピックのテレビ中継を授業でも見ることになり、電気に詳しいぼくが選抜されて、図書室にテレビを設置した。
 クラブ活動とは別に、クラスごとに各種の学級委員が任命されていたが、ぼくは担任の教師から、強制的に図書委員に任命された。理由は、実に簡単だった。図書委員になりたい生徒がいなかったので、担任教師は図書室に出かけて貸し出しカードを抱えてくると、そのなかで一番たくさん本を借り出している生徒を調べはじめたのだ。
 結果は、ぼくがダントツの一位だった。
 マンガやラジオ雑誌以外の「普通の本」は学校の図書室で借りる。それがぼくの信条で、図書室の本を毎日のように借り出していた。それも小学校のときから愛読していた岩波少年少女文庫から、電気やラジオに関係する本までだ。
 化学部の部員と鍵のかかった薬品室の窓をこじ開けては、硝酸、塩酸、硫酸、マグネシウムなどを持ち出し、王水や火薬もどきなどを作っていたが、そんな化学の知識も、すべて図書室の本から得たものだった。
 アインシュタインの相対性理論の解説書まで読んでいた。理解できたかどうかは別問題だが、太陽風というものを目視できるのではないかと、スピーカーを鳴らすトランスをバラしてほぐした髪の毛のように細いエナメル線を、学校のグランドの端から端まで二〇〇メートルほども引っ張ったこともある。
 そんな本の書名が羅列された図書の貸し出しカードを見て、ぼくを図書委員に任命した担任教師の一言がすごかった。
「おめえ、精神分裂症じゃねえの?」
 体育の教師だったせいで、言葉も乱暴だったが、この言葉は、実に的確だったようにも思う。
 マンガも描いていたが、戦争マンガだけでなく、ミステリーや冒険ものにも手を出すようになっていた。これも図書室で借りた本の影響だった。
『ツバメ号シリーズ』で知られるアーサー・ランサム、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』などのエーリヒ・ケストナー、『名探偵カッレ君』のアストリッド・リンドグレーン、そして『怪盗ルパン』のモーリス・ルブランといった作品を集めた岩波少年少女文庫は、いちど小学生のときに読んでいたのに、中学生になっても読み返していた。


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