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『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(2)

●マンガ同人誌「墨汁三滴」と出会う--

 高校最初の夏休みは、あっというまに終わり、すぐに二学期になった。
 少年雑誌「ボーイズライフ」の読者欄に、「マンガ同人誌の会員募集」のお知らせが掲載されたのは、この頃のことだ。
〈マンガ研究会ミュータントプロでは、石森章太郎先生を顧問に、伝統あるマンガ同人誌「墨汁一滴」の流れを継いだ「墨汁三滴」をはじめます。あなたも参加しませんか?〉
 こんな告知内容で、応募に当たっては、自作のカットを二点同封して送れという。
「ミュータント・プロ」という研究会の名称は、おそらく石森章太郎のヒットマンガ『ミュータント・サブ』からきたものだろう。何よりも、石森章太郎が名誉会長というのが魅力だった。それまで遠く憧れているだけだったマンガ家の世界との距離が、急に縮まるような気がして、ぼくは大あわてで、指定されたサイズのカットを描いた。
 二枚のうちの一枚は、長いあいだ描いてきて多少は自信があった飛行機の絵に決めた。旧日本海軍戦闘機の雷電である。そしてもう一枚は、人物の絵を描いた。二枚とも、市役所で使われた使い古しのペン先で描いたものだった。
「マンガを描くのには使い古しのペン先がいいらしい」と近所に住む市役所勤務の人に話したら、山のように持ってきてくれたのだ。当時、市役所に提出する住民票や戸籍謄本などの申請書類は、すべて、ペンとインクで書かれていた。そのため市役所では、使い古しのペン先が大量に出て、処分に困っていたのだという。ぼくは、この使い古しのペン先を、ヤスリや砥石で研いでは使っていた。
「ミュータント・プロ」は、東京都三鷹市に住む菅野誠という同じ年の高校生が会長をつとめていた。そこにカットを送り、同封した返信用の封筒で返事がくるのを首を長くして待った。
 返事がもどってきたのは、一カ月ほど後のことだった。

 結果は、不合格。送り返されてきた絵には、「レタリングが下手。テクニックがなっていない。線が汚い」と書かれたメモが同封されていた。
 ショックだった。自分では自信を持っていただけに、なおさらだった。
 田舎で、雑誌や貸本劇画だけをテキストにマンガを描いていたので、実際のマンガ家の原稿が、どんな線で描かれているのかなんて、わかるはずもない。ただ「テクニックがなっていない」といわれても、どんなテクニックが必要なのかも理解できていなかった。
「マンガ家入門」によれば、「マンガのテクニック」とは、マンガのストーリーをより効果的に読ませるため、見せるための技術であり、それは、クライマックスの盛り上げ方や、主人公の心理状態を的確に読者に知らしめる技術のはずだった。
 つまりぼくは、マンガのテクニックとは、絵の技術ではなく、構成の技術のことを指すのだと思っていたのだ。だから、一枚や二枚のカットでテクニックの有無を判断されるのは納得がいかなかった。
「同じ年のくせして、生意気な奴だなぁ」
 そんなことを考えながら、ぼくは、ほかの方法を模索しはじめた。
「少年サンデー」誌上に柔道マンガを連載していた貝塚ひろし氏が「まんがマニア」というマンガ家志望者のための雑誌を始めたことを知ったのは、「ミュータント・プロ」から不合格を告げられた直後のことだった。さっそくぼくは、このA5版の薄っぺらな雑誌の購読を開始した。
 ここにも、マンガ同人誌ブームの先駆けとなったマンガ研究会がいくつも紹介されていた。マンガ研究会と同人誌が増えたのは、「マンガ家入門」の影響にちがいない。
 この「まんがマニア」には、一駒マンガを何点か送り、そのたびに掲載された。しかし、掲載されるマンガの大半は、プロの水準には、ほど遠いものばかり。そこで掲載されても、あまりうれしくはなかった。
 ぼくの田舎は気候が温暖で、五月はじめから十月のはじめくらいまで、プールで泳ぐことができた。水泳部員として、毎日、一万メートルくらい泳いでは、家に帰って深夜までマンガを描きつづけていたのだが、そんなことをつづけているうちに、朝起きるのがつらくなってきた。
 最初は徒歩で通学していたのに、距離が近いために禁止されていた自転車で通うようになり、ついには、それでも遅刻しそうになって、毎日バスで通うようになったのだ。
 毎日、睡眠不足のまま、水泳の練習を続け、深夜までマンガを描いていたせいか、夜になると身体がだるくなり、眠れない日々がつづくようになった。あまりにも体調が悪いので、病院で精密検査を受けたこともある。しかし、どこにも異常はなし。過労から貧血症になっているとの診断で、太いブドウ糖の注射を打たれておしまいだった。
 水泳とマンガに明け暮れた高校一年生の二学期が終わろうとする頃、一枚のハガキが舞い込んできた。
 ハガキの主は、ミュータント・プロの菅野誠だった。ミュータント・プロの下部組織として、ミュータント・プロ・ジュニアというマンガ研究会を作ることになったのだという。
 肉筆回覧誌用の原稿サイズまで、きちんと決められていて、作品を描き上げて送れば、自動的に同人誌に掲載されるらしい。しかも腕が上がれば、「墨汁三滴」の方に昇格できるかもしれないというのだ。
 憧れのマンガ家である石森章太郎先生に、自作のマンガを見てもらえるかもしれないチャンスでもあった。高校入試の受験勉強もさぼって描いたマンガを送っても、何の返事もなかった石森章太郎先生に、本当に、作品を見てもらえるようになるかもしれないのだ。ぼくは、冬休みに入ると同時に、ミュータント・プロ・ジュニア用の作品に取り組んだ。
 冬休みには郵便局のアルバイトもしていたが、ノルマの配達が終わると、家に飛んで帰ってマンガを描いた。翌年の年明け早々が、締切になっていたからだ。
 描いていたのは、『シークレット・エイジエントマン』という二〇ページの読み切りスパイマンガだった。
 年が明け、冬休みが終わろうとする頃、なんとか二〇ページのマンガを描き上げ、菅野誠のところに発送した。
 今度は、半月も経たないうちに返事がきた。しかも、送った原稿が同封されていた。送られた原稿を見た結果、ぼくを「墨汁三滴」のメンバーにすることに決めたという。ついては、「墨汁三滴」の方は、原稿のサイズが違うので、別の作品を描いて送れというのだ。原稿が返送されてきたことよりも、ファームから一軍に上がれることの方がうれしくて、ぼくは、すぐに新しい作品を描き出した。
 締切は、春休みになっていた。ぼくは、冬で水泳の練習もないことをいいことに、高校一年の三学期を、マンガを描くために費やした。
 突然、二軍だったぼくが一軍に引き上げられた原因は、「ミュータント・プロ・ジュニア」の方に、実際にマンガの作品を描いて送ってきたのが、ぼくと、もうひとり、都内に住む中学三年生の女子しかいなかったためだった。たった二人の作品では、同人誌も作りようがなかったのだ。
「マンガは下手だけど、せっかく作品を送ってきたのに、入会を断るのはかわいそうだよ」
 同じ中学出身の四人の高校生がはじめたミュータント・プロの幹部会議で、ぼくと女子中学生に対する同情が集まり、ふたりして一軍に引き上げられたものらしい。
 もちろん当時は、そんなことなど知るはずもなく、ぼくは、ただ必死に次の作品を描き、東京の菅野誠とのあいだで文通をかさねて、できあがった作品を東京に持参することになったのだ。
 菅野は、ぼくが上京すれば、石森先生に会わせてくれるだけでなく、作品の批評も受けられるようにしてくれるというのだ。これで張り切らないほうがおかしいというものだ。ぼくは、最後の頃は、睡眠時間を二、三時間に切り詰め、なんとか完成させたマンガの原稿を持って、東海道本線の鈍行に乗り込んだ。静岡県の富士駅から東京駅までは片道五百三十円、三時間半の旅だった。
 江東区亀戸にある叔父の家に一泊し、翌日の朝、総武線、地下鉄丸の内線、西武池袋線を乗り継いで、練馬区の桜台駅に向かった。
 ミュータント・プロ会長の菅野誠とは、この駅の改札口で待ち合わせることになっていた。
 第1章の内容は、この長い一日に起きたことである。


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