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「マンガの視点」と「小説の視点」

『テヅカ・イズ・デッド』を読んで書いた“『新宝島』の「映画的手法」についての一考察”で、『新宝島』はアメリカ製フルアニメを意識して描かれたのではないかという推論を書いたのだが、このとき、「途切れることのない長回し風カット」のことにばかり触れて、ここで、もうひとつの要素を強調するのを忘れていた。それは「視点」の問題である。

『テヅカ・イズ・デッド』にも紹介されていた『汽車の旅』(大城ノボル)と『新宝島』の違いは、この本で紹介されている範囲でのカットを見てもわかるが、『新宝島』の方が「視点」が自在に動いているのである。これが主人公の少年や車、船の動きなどに「連続性」をもたらしているのは間違いない。モーション・コントロール・カメラのことを例に出したが、これは「カットの持続性、連続性」というよりも「めまぐるしくアングルが変化する視点」の例として考えてもらえると、よりわかりやすいのではないかと思う。

『汽車の旅』のような固定したアングルの「おとなしい構図」を見慣れていた読者には(もしかすると激しくアングルが変化する作品はあったのかもしれないが、戦争によって断絶があったため)、『新宝島』に採用された構図(カメラアングル)が新鮮に感じられたのではなかろうか。

『新宝島』ほどのカルチャーショックではなかったかもしれないが、たとえばぼく(1950年生まれ)のような「COM」世代は、宮谷一彦氏の登場が大きなカルチャーショックであったことはまちがいない。宮谷氏の登場で、劇画の背景は、「いかにして写真のように描くか」がテーゼになった。これも「マンガ表現」の「革命」のひとつであったことはまちがいない。

 宮谷氏の背景は、確かに「リアル」だった。ただし、そのリアルさは、銀塩カメラで撮影した写真をコマの中に再現するリアルさであった。

 しばらくつづいた「写真のようなリアルさ」を変えたのが大友克洋氏だった。『童夢』あたりから顕著になり、『AKIRA』で炸裂するのが、モーション・コントロール・カメラで撮影したような、自在な構図――つまり、カメラアングルだった。言い換えれば「視点」がめまぐるしく変換するようになったのだ。以後、アニメ系、ゲーム系の延長から派生したようなSF、ファンタジー系統のマンガは、大友チルドレン(あるいは『エヴァンゲリオン』チルドレン)と呼んで差し支えないような、細密で華麗なペンの線によって描かれた作品が主流になる。しかも「視点(カメラアングル)」も、モーション・コントロール・カメラや最近のCGを多用した実写映画のように、めまぐるしく変化する構図が多くなった。

 たぶん、このような影響を受けてのことだろうが、最近、若い小説家志望者が書く小説の習作のなかには、やはり、めまぐるしく視点が変化するものが増えてきた。

『マンガでわかる小説入門』
 ちょっとPRめいて申し訳ないが、実は、まもなく発売される拙著の『マンガでわかる小説入門』でも、もっとも多くページを割いているのは、「視点」についてなのである。竹内オサム氏の『マンガ表現学入門』では、文学の視点については、サラリと触れられていただけだったが、ほんらいビジュアルを伴わない小説においては、その文章が「誰の視点で書かれているか」が大きな問題になる。

「マンガの同一化技法」で語られる「視点」と同様に、小説にも他種類の「視点」がある。「一人称」で書いたものもあれば「三人称」で書いたものもあるし、主人公の名前を主語にしながら「視点」は一人称ということもある。その場その場の語り手が誰であるか、描写の主体が誰であるかといったことが、うまく読者に伝えられないと、読者は混乱することになる。マンガや映画、テレビなら、カットの切り替えで、視点の変化がわかるように、小説の場合は主語の変化や一行空けといったテクニックで、視点が切り替わったことを読者に明示する必要があるというわけだ。

 ところが小説初心者の中には、同一シーンの中で、「カット」の切り替えなしに――つまり、主語の変化や一行空けといった明示なしに、いつのまにか「視点の主体」が変化したり、同一パラグラフの中で「視点の主体」や「語り手」が変化してしまうものが多いのだ。視点が混乱している小説は、読んでいると船酔いしたような気分になり、読み続けるのが困難になる。

 若い人の作品に視点の混乱が多いのは、おそらくは、めまぐるしくカメラアングルや「視点」が変化し、それでも違和感を感じさせないアニメやマンガを脳裡に想起して、小説を書いているためだろう。

 しかし、ミステリーなどになると、「視点」がより重要な意味を持ち、作品の根幹となることもある。視点の使い方を誤ると、トリックが成立しなくなったり、読者に対してアンフェアになってしまうことさえもある。

 とある人気ミステリー作家が、やはり、この視点のことで、ミステリーの読者たちからアンフェアだと指摘されていたことがある。この作家は、テレビドラマの脚本家出身だったが、ミステリーを書く前に執筆していたノベライズ作品でも、視点がどこにあるのか不明瞭な文章を書いていた。以下は、まったくの推測だが、最近のテレビドラマでは、同時に多数のカメラを回して役者が演技しているシーンを収録する。登場人物のアップを撮影するカメラ、全員をロングで撮影するカメラなどが同時に回っているのだ。芝居の舞台中継に近いといっていいだろう。

 そのため役者たちは、いま自分が、どのようなアングルで撮影されているのかを意識することなく演技する必要がある。多数の目で同時に見られているという意味では、役者にとっても舞台中継のような印象が強いだろう。

 このようなドラマの場合、最終的な作品は、ディレクター(演出家)の編集によって完成する。映画の場合は、ふつう、スクリーンの枠(フレーム)を意識してシナリオを書く。だが、テレビドラマの場合は、セットの中の配置などだけ指定して、カメラアングルの選択は、演出家まかせとなることが多い。

 昨年だったか、たしかTBSの『3年B組金八先生』だったと記憶しているが、出演した若い女優が、「フレームが決まった1台のカメラで撮影されるのが初めてだったので、すごく緊張しました」とインタビューで話していたのを読んだ記憶がある。たぶん、テレビドラマにばかり出ていたために、映画のように1台のカメラで撮影される機会がなかったのだろう(いまは映画でも複数のカメラを使うことが多くなっているらしいが)。

 多数のカメラで同時撮影するドラマの脚本は、おそらくは芝居の脚本、台本と同じで、フレームという「視点」の概念が生じないのではないか。そのために、前述のテレビドラマ作家出身のミステリー作家も、「視点」というものが抜け落ちていたのではなかろうか。

 この視点の問題は、たとえば新国劇の座付き作者出身の池波正太郎氏などにも共通していることだが、時代小説の場合は、もともとが「(作者の)語り」で進行される一面もあり、視点があちこちに飛んでも、それが作者の視点(神の視点、講談師の視点)であれば、さほどの違和感を感じない。

楳図かずお大研究    別冊宝島 (675)
 ふたたびマンガの視点に話題をもどす。ぼくは以前、「別冊宝島」の『楳図かずお大研究』(宝島社/2002年7月/1,390円)に「楳図かずおの恐怖技法」という拙文を掲載してもらったことがある。この文章では、楳図マンガに特有の構図やパースのことについて書いているのだが、もうひとつ、竹内オサム氏風にいえば、「無視された同一化技法」とでもいえそうな描法についても触れておいた。

 これは『漂流教室』などに散見されるのだが、たとえば登場人物が窓の方を見て、「あ、人が走っていくわ」と話しているコマがあるとする。だが、足音は聞こえるものの肝心の走る人が描かれないまま終わってしまうシーンがあるのだ。あるいは教室の開いた窓を指差し、そこから見える別の窓から覗く子どもの存在を指摘することがあるのだが、これもただ窓の外を指さしているだけで、窓の外の光景は描かれないのである。

 動作とセリフだけで、見えない場所の状況を説明し、それでおしまいとなる。ふつうのマンガなら(映画でも)、登場人物の視線や指差した先の情景が、(同一化技法によって)別のカットとして観客や読者に示されるはずである。ところが楳図マンガでは、そうではないのだ。

 どうしてこんなことになるのか? ぼくが思いついたのは、楳図氏のマンガは、舞台で演じられている「芝居」のつもりで描かれているのではないかということだった。芝居では、セットの都合もあるから、舞台というフレームの外にあるものは、セリフで説明してしまう例が多い。「あら、通りの向こうを山田さんが通るわ」てな具合に、過剰な説明セリフで観客に、見えない舞台の袖の情景を解説するのが芝居の常道である。

 楳図氏が「芝居」を意識してマンガを描いていると考えると、ほかにも辻褄が合うことがある。それは構図――カメラアングルである。情景描写をする場合、下からあおったりする構図は極めてまれで、大半が、斜め上――つまり、劇場の観客席や天井桟敷あたりから見たカメラアングルになっているのだ。しかも、パースによる奥行きもつけられていないことが多く、ちょうど舞台の上に建て込みでつくられたセットのように見えるのだ。

 こんな原稿を書いて「別冊宝島」の編集を担当したEさんに送ったのだが、その数日後、楳図氏にインタビューに出かけたEさんから届いたメールには、「楳図さんは、劇団で芝居をしていたこともあるそうです」と書かれていた。


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» 古川日出男 沈黙 from 活字中毒者の小冒険2:本の海を漂うような濫読読書ノート・気まぐれ書評
古川日出男の「沈黙」は視点がどんどん変わり、かなり読みにくい。文体がシャープなのに、残念だ。 [詳しくはこちら]



コメント

だいぶ以前ですが、下北の劇場へ北村想の
芝居を観にいったら、楳図かずおさんが
主役に次ぐ役で、出演されておられたので
びっくりしたことがあります。
劇団員のレベルにちゃんと溶け込んでいて
いわゆる<特別ゲスト>みたいな目立ちの
不自然さは、全く無いのにも感心しました。
彼の演技力は大変なものですね。


>長谷先生

 楳図先生は、劇団ひまわりだったかに所属していたそうです。

 楳図先生には、1969年に一度だけ、編集プロの仕事で原稿をいただきに出かけたとき、お会いしたことがあります。高田馬場のマンションの3階に事務所があったのですが、1階でバッタリ出くわして、用件を伝えると、「じゃ、エレベーターでどうぞ。ぼくは階段で行きますから」とのこと。いくらなんでも先生が階段を徒歩で上がるのに、見習い編集者のこちらがエレベーターを使うわけにはいかず、先生のあとを追って階段を昇りましたが、先生の速いこと速いこと。まさに鬼神のように階段を駆け上がっていくんです。それも涼しい顔で。

 先生は35歳くらい。こちらは19歳でしたが、ついていくのが大変で、ゼエゼエしながら階段を駆け上がったものです。

 楳図先生が、電車以外の乗り物(エレベーターを含む)に、いっさい乗らないという話を聞いたのは、原稿をいただき、会社に帰って上司に階段を駆け上がったことを話したときでした。


はじめまして。
たけくまメモから流れて参りました。

映画本編でのカメラは本来一台きりで撮影していました。男女二人の会話シーンなど、お互いのバスト・ショットが台詞ごとに入れ替わる場合、各々を別々に撮影して、編集でつなぎ合わせてワン・シーンにします(所謂モンタージュ技法)。役者は実際には相手役ではなくカメラを前にして演技(恋を語ったり、嫉妬したり)します。当時の演技力とは、相手役なしで何度でも同じ演技を行うことでした。台詞は、編集後のフィルムを見ながらのアフレコ(後入れ)です。つまり「台本の読み込み」がとても重要であった訳です。

マルチ・カメラ方式が映画本編で使われたのは、黒澤明の傑作「七人の侍」の雨中の決戦場面からであったと聞き知った覚えがあります。この場合、演者はいつどこからどのカメラが撮っているか判りえない為、演技でありながらも、あたかも本物の戦闘場面を演じなければならず、劇映画なのにドキュメンタリーの様な迫真の戦闘シーンが表現されたと言われています。最近のCG・SFXによる「迫真さ」とは異なり、役者の演技がリアルにより近くなるという意味合いです。

現在、セットでのTV撮影は三台+αのカメラで撮影して、これをスイッチングで編集します。各カメラはズームやロングを場面ごとに分担し、ハンディ・カメラで煽りを入れたり、クレーン・カメラで俯瞰を入れます。
現代のTVドラマでは、前述の映画本編のように、役者をバラバラに撮影して編集でつなげるのではなく、数台のカメラでワン・シーンを撮影して、あとで編集でバラバラにしたりできます。
よく見ていると、ベテラン俳優は会話場面のようなモンタージュ技法的な演技(現実には一人で演技する)を自然に上手くこなせますが、新人俳優やバラエティ・タレントは画面に全員が入って、その中で皆が順番に喋るモブ・シーン的な(あるいはお芝居的な)場面をよく見かけます。てだれの編集担当者は、こういう質的に違いのある場面を、不自然さを感じさせないように繋げていますね。
「金八先生」では、若い役者にとって不慣れな撮影方法を、あえて選ぶことで「台本の読み込み」や「役への没入」や「現場の緊張感」を与えたのでしょうか。(ジャニーズ・タレント主役の大河ドラマでは、主役でアップが多いのに「役への没入感」に不足を感じる事が多いです。)

マンガでの視点転換の早さは、ウルトラ・ジャンプ連載のあかほりさとる「マウス(?)」で感じ始めました。人物のサイズがストーリーや脈絡に無関係にむやみと変わったり、アングルやコマのサイズも目まぐるしく変化し、登場人物の同一性という点で「軽井沢シンドローム」以来の「めまい」を覚えたものです。若い読者には、これが受けているのか、と正直いって悩みました。だって、判りにくいし、特に意味も感じないし。商業マンガなのに、これでいいのかなって。

小説における「人称」は筒井康隆「着想の技術」にて詳しく記述されています。ちなみに氏の「文学部唯野教授」は文芸批評の各派の歴史が上手にわかり易く紹介されているので必読モノです。

長文、失礼しました。


追伸。
頻繁で無脈絡な視点転換はペルソナ(物語世界での役割=登場人物の同一性)の崩壊を生じ、物語世界の虚構性の崩壊に連鎖し、意味やストリーや脈絡が消失し、萌えやBLなどの「遊び的読み込み」によって代替・補完され「キャラもの」として輪廻転生する、と総括しても良いでしょうか?


>トロ~ロさん

 こちらも芸能関連のプロダクションに関わっているので、多少はドラマ製作の現場についても知識があったのですが、最近は、コスト削減、製作時間短縮の観点から、いろんな方法が編み出されているようです。録画方法がデジタルになり、長時間の録画が格安でできるようになったのも大きいですね。1本20分しか撮影できないテープを、残り時間をチェックしながら、大事に使っていた時代もありますので。これはフィルムも同じです。

 アメリカでは、カメラのファインダー(モニター)に、映画用、ゲーム用、テレビ(DVD)用のフレームが描かれていて、これで撮影することで、後処理を短縮するという方法がとられているそうです。

 筒井康隆氏については、こちらも読んでいます。いろんな実験も読者も納得の上で読まれるので、うらやましいというか面白いというか……。『富豪刑事』という作品の中では、1つのパラグラフの中で、改行もせずに、同時に別の場所で起きているできごとを「カットバック」で描写したりしておりました。

 カットバックというと、別の場所で同時に起きている2つ以上のものごとを、短いカットで連続的に配置することで緊迫感を盛り上げる映画のテクニックでしたが、マンガでは石ノ森章太郎師が、意図的に使っていたことがあります。

 石ノ森先生も筒井氏も、マンガや文章での「同時性」の表現を意識してやったものではないかと思います。

「追伸」の部分は、ちょっと理解できません。

 ぼくは『テヅカ・イズ・デッド』をはじめとする評論活動によってマンガが語られることは、個人的には非常に面白く感じていますが、その反面、もともとモノいわぬ大衆をお客とするマンガという娯楽メディアにとって、その読解のために、これほど多くの「言葉」を必要とすることは、娯楽メディアとして衰退していることの象徴でもあろうと考えています。

 マンガの作り手が、お国の(産業としての)保護政策を歓迎しているようでもありで、歌舞伎や落語のような道をたどっているのかなあ……と思ったりもしています。



7日の大塚英志さんとのトークで、大塚さんは
石ノ森章太郎の『マンガ家入門』の『竜神沼』の
自己分析・コマ割りを、現代の映像作家は勉強
すべきだ~というようなことを発言されていました。

手塚先生のマンガ入門本はどれも面白くないが、
彼の手法は、トキワ荘グループによって実現され
発展を遂げた~つまり手塚先生のマンガ家入門は
<トキワ荘マンガ>が解説している!というわけ
ですね。

大塚さんは若いとき、石ノ森のネームを取りに
いっていたそうです。
石ノ森が書いた文字をトレペで書き取っていたら
「君、ただ写しているのか。何で、疑問などが
無いんだ!」と怒られたそうです。
編集者を先生は、教育しようとされていたんだなと、
大塚さんは反省したそうです。


>すがやみつる様

お返事ありがとうございました。
大変、参考になります。
プロの方相手に知ったかぶりのカキコミをしてしまって猛省しております。
大変、失礼致しました。申し訳ありません。

映像作品にとって「デジタル化」の影響はやはり大きいのですね。
マンガもPC原稿が増えて、手作業では考えられない種々のエフェクトができる為、見せ場でのコマ・サイズの増大とコマ数の減少と頁数の増大により、ドラマ性が、ややもすると薄れているような気がします。
現在のハリウッド製映画と同じ現象です。「産業としては巨大だが、ハリウッドの創造力とオリジナリティは衰退しているのじゃないか」と思うときがあります。
「バスト・ショットが魅力的でない映画なんて」などと。
古すぎるセンスでしょうか。

それゆえか、フル・デジタルの個人製作PCアニメ「ほしのこえ」の叙情性とドラマ性には瞠目しています。

>長谷邦夫様

ときどきブログにも書き込ませて頂いておりました。
「comic新現実」掲載の吾妻ひでお氏の「夜の魚」シリーズにて、アシスタント入りした先のマンガ家から「もっと若い人の考えやアイデアをどんどん言ってくれないと使えない」と言われる場面がありました。これもネタ出し・ネームの訓練だったのでしょうか。



>すがや様

以前夏目氏と「マンガの読み方」を執筆していたときに、「われわれはふだん文法を意識していなくとも、言葉を話したり、それを理解することができる。マンガを読むことや描くことも同様で、“マンガ文法”を知らなくたって現実に困ることはない。では、われわれの作業にはどんな意味があるのか?」ということが議論になったことがあります。

確かそのときの夏目さんの答えが、「確かにその通りだが、自分は“なんでマンガを面白く感じるのか”を純粋に知りたい。人間にはそういう知的欲求があるし、そういう欲求を感じているのが自分一人でない限り、こういう作業には意味がある」というようなものだったと記憶しています。

>その読解のために、これほど多くの「言葉」を必要とする
>ことは、娯楽メディアとして衰退していることの象徴でも
>あろうと考えています。

というのは、僕も「マンガの読み方」執筆当時から感じていたことであり、内心忸怩たるものがあったんですが、これはジャンルが成熟する過程で必然的に生じる、しかたのない出来事なんだと思うことにしました。

理屈を抜きにしてとにかく実作を優先させることで、過去のマンガはガムシャラに突き進んできたわけですが、そういう「熱き青年時代」は、残念ながら終わったのだと思います。かつては文学や映画を追いかけてきたマンガが、今やそれらに影響を与えるようになった現在、マンガの側で自らをもっと知り、説明する必要があるのではないか…と思います。

それをはっきりと感じたのが90年代初頭に起きた「有害コミック規制問題」で、あのとき業界はまともな対応ができませんでした。数十年前の悪書追放運動のときと同じく、「マンガが文学と同じ自立した表現」であることをきちんと説明できる論客が、本当に少なかったのです。

それから長年マンガ業界にいて痛感していたことは、マンガ創作の現場が、あまりにも「個々人の経験則」によって支配されていることです。先生からアシスタントへの「技術の伝承」はありますが、それにあまりにとらわれると、かえって表現の可能性をせばめることもあるのではないかと思います。

一例をあげれば、僕の古い友人にマンガ家の藤原カムイがいるのですが、彼は本当は「少年ジャンプ」でデビューするはずだったのです。ところが当時の担当編集がもと本宮ひろ志担当で、当時からカムイが作画にカブラや丸ペンを使用していたのを、「それでは迫力がでない」と強引にGペンに変えさせようとしたことがあったそうです。

結局、カムイはジャンプでのデビューを断念しました。彼の目指している作風とはまったくかけ離れていたからです。その担当者の基準は本宮マンガなので、それとは違う作風が理解できなかったのだと思います。まあ、これは極端な例ですが。

前にディズニーのドキュメンタリーを見て思ったのですが、ディズニーのすごいところは、アニメの技術を進歩させるために1930年代初頭の段階で「研究所(当時は「学校」と呼ばれた)」を設立していたことです。人間や事物のあらゆる動きをフィルムで撮影し、それをスローモーションで解析することで、「動きの本質」を根本から分析していました。そこで判明した結果を現場にフィードバックすることで、ディズニーアニメは進化したというのです。

マルチプレーン撮影をはじめ、現代アニメーションの基本技術のほとんどが、30年代のディズニー学校で生まれています。いわゆる大企業の「基礎研究部門」にあたることをやっていたわけですが、日本のマンガも、個人の職人芸や経験則だけにたよるだけではなく、それこそ大出版社が資本を投下して、もっと「基礎研究」が行われてもいいのではないか、と考えています。


>たけくまさん

本題と直接の関係はありませんが。

類人猿(ゴリラ、チンパンジー)の研究により、彼等は言語を理解するという知見があります。絵や記号が並んだパネルを指差して研究者と会話する、というものです。

しかし実際は「バナナ、自分、食べる」という記号を全くランダムに順不同に何十回も繰り返し指し示すのみで、単語(具体的な物象を指示する記号)は理解していても、文法(語の順番や構成や変化で意味を形成する)は理解し得ないのだそうです。
ここが類人猿と人類の言語における最大の決定的な違いであると、京大の研究者が京都新聞のコラムに書いていました。

絵や図象や画で表現するという能力を人類は石器文明の頃から持っています。それを連続させ画面構成して「文法」を付加してもっと高度な表現を行う、という能力をいつ獲得したのか明らかではありません。

ゆえにマンガ研究が無意味であるとは考えません。

ただし、すがやみつるさんが仰る意図は、実作者としてメディアの限界を感じておられるから、ではないかと考えます。

すぐれたエンタテインメントは、観客や視聴者を黙らせ引き込み、時間を忘れさせ、夢中にさせます。その現場では解釈など不要であり、言葉にする必要性もありません。かつてのサーカスやプロレスや映画やビートルズがそうであったように。人の渦が何をしなくても集まってきます。

現在のマンガ事情がそうなのか否か。永年の実作者として疑義を感じておられるのではないでしょうか。


大塚英志さんと、東放学園研究所でやったトークでも
マンガ・プロデューサーの話しが出ましたが、結局
これは編集者が経験則でやってきた~という現実を
話され、今後はもっと本格的な(意識的な)プロデュース
が必要ということでした。
それには、やはりマンガや映画の基礎的知識がまず必要だと。

ぼくが赤塚のブレーンというよりは、プロデューサー
だったということも言われていました。

マンガ家を育てる~というときに、編集者・プロデューサー
の二つの視点が、これからはますます重要になるのは、マチガイないと思います。
アマチュアや新人たちも、本能的に描くのではなく
そうした環境に対応できる知性が必要になるはず。

あくまで個的に制作したい人は
アニメでいえばアート・アニメーション系と
いうことになるのかも知れませんね。
「ガロ」的とは違った意味でですが…。


2ちゃんねる情報で恐縮ですが、
著名フリーソフトウェア FD(File&Directory tool )
の作者である出射厚(いでいあつし)さんが、
昨年11月に脳腫瘍のため逝去していたそうです。


お忙しい中、申し訳ありませんが、
なにか、当時のお話をお聞かせいただけたらと思います。
ネットライフの方が、最近止まっていますので、
こちらで失礼します。


>ぽんさん

 とりあえず、こちらからコメントさせていただきます。

 FDについてはDOS時代にPC-9801とIBM PS-5530で愛用していましたが、作者の方とは面識がありません。もしかするとニフティのフォーラム関係者の会合などで会っていたかもしれませんが、ちょっと記憶にありません。

 同じフォーラムでも、こちらはモータースポーツの情報系だったので、フリーソフトやシェアウェアの作者の方々とは、あまり交流はありませんでした。

 FDがあったからWindows 3.1にも、すぐに馴染めたようなところもありますが。


はじめまして、いつも楽しく拝見させて頂いております。

今回「マンガの視点」と言う事で一言。
最近一番気に入っているマンガに、一ノ関圭氏の「鼻紙写楽」と言う漫画が在ります。
話は、写楽の目を通して見た「成田屋(市川団十郎)の光と影」を描いた物です。
その中で、1話と4話の話の中で、同じシーンを別のカット割で描かれた箇所が在るのですが、この様な手法って他でもよく使われる方法なのでしょうか?

※シーンは、ひわ(団十朗の娘)と伊三(写楽)が出会うシーンで、寛政の改革で禁制となっていた振袖を着ていたとして、瀬川菊之丞が同心に勾引され、裸にされてしまう。それを見たひわが同心にくってかかり、あわや手打ちにされそうになる所を伊三の機転で上手く助ける。という所です。

話自体読み切りの様な感じで、1話・4話ともに別々の話なのですが、こういったシーンが入る事によって別々の話が纏まり、1つの世界を作るのに効果的なのだなぁ・・・と驚いてしまった感じです。
(逆カットバック?みたいな感じ??)

まぁ、同一シーンを別アングルでさらっと描いてしまう一ノ関氏の画力は言うまでもなく・・・と言った感じです。

ところで、この一ノ関氏。絵は元より、構図、コマ割のテンポ,話とかなり高いと思うのですが、あまり漫画論(夏目先生の本とか)の様な所では語られてない様な・・・やはり寡作で一般的に知られて無い性ですかね?
(私が知らないだけ?)

メジャーではない作家の中に目を見張る人も多いと思うのですが・・・
映画監督のジャコ・バン=ドルマルの様に・・・

※乱文失礼しました。


>すがやさま
 ごぶさたしてます。いつも面白いですが、今回の映画やテレビの話はいつにもまして勉強になります。すがやさんの観点はじゅうぶんに批評的です(笑)。

>評論活動によってマンガが語られることは、[略]もともとモノいわぬ大衆をお客とするマンガという娯楽メディアにとって、その読解のために、これほど多くの「言葉」を必要とすることは、娯楽メディアとして衰退していることの象徴でもあろうと考えています。

 ということですが、これはむしろ「衰退」ではなく、産業として発展し拡大・多様化してしまった結果だと思います。だから「言葉を必要」とするんじゃないでしょうか。「お国の保護政策」についてもそうですね。
 また「モノいわぬ大衆」像は、すでに相当崩れていると思うので(じっさい今の大衆はよく発言しますし、ネットという発言場所をもっています)、大衆娯楽の意味も変化していると考えられます。僕はどんなに優れたマンガでも「たかがマンガだから」という読み方ができるところに大衆性をみますが。
 批評は、竹熊さんのいうように人の知的上昇過程のひとつで、自然な過程にすぎません。いいかえるとマンガ同様に自律した表現行為なので、歴史的にある程度の蓄積がなされると、必然的に「批判による構築」がなされ、さらに「批判内容の批判」へと進み、互いに区別するため「多くの言葉」を必要とするようになるのだと思います。
 そのさい、批判の言葉のもつ厳密さ、複雑さ、あるいは批判の鋭さが、ともすると自己目的化する危険がつねにあります。すがやさんの危惧は、ほんとはそのへんにあるのではないかという気がしました。
 よく文学や映画について評論がダメにしたという人がいますが、そんなものでダメになるほうが悪い(笑)と僕なら思います。もともとダメだったんじゃないかと。たぶん原因はほかにあるでしょうけど、少なくともアメリカでは映画は教育の成果で再生した面があったように思いますしね。
 僕の名前が出たので、つい書き込んでしまいました。失礼しました。


>たけくまさん

 コメントをありがとうございます。昨日は、午前5時に起床して、法事のために静岡の母の実家まで往復し、睡眠不足で頭もモーロー状態だったため、こちらのコメントは、いちど寝てからにさせていただきました。

>その読解のために、これほど多くの「言葉」を必要とする
>ことは、娯楽メディアとして衰退していることの象徴でも
>あろうと考えています。

 この件についてですが、『読解のために「言葉」を必要とする』というのは、そのあとに書いたように「歌舞伎や落語」を意識してのことです。

 歌舞伎は、江戸時代には、何か事件があると、幕府の取り締まりも厳しいために、別の設定に仮託して表現する一種の「再現ドラマ」でもありました。かなり下世話で覗き趣味的な大衆娯楽だったはずですが、現在は、もちろん古典になっていて、しかも、ある程度の素養がないと、(とりわけ最近は、長い物語の一部が断片的に上演されるだけのために)ストーリーさえもわからない。

 そこで、やさしく解説してくれる「イヤホンガイド」なんてものがあるわけですが、「マンガ表現」についての文章を読んでいると、歌舞伎のイヤホンガイドのようにも思えたりすることもあったりするワケです。

 最近、テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」のおかげで、寄席に足を運ぶ若い人が多くなって、どこの寄席も満員御礼状態がつづいていましたが、でも、寄席の落語は古典が中心で、それも何の前置きもなく郭ばなしなんか始まってしまう。遊郭なんて知らない人が圧倒的多数なのに、これじゃ長続きしないだろうな……と思ったら案の定でした。新しい真打の興業披露もはじまっていますが、やはり一時の勢いはなくなっているようです。もっとも、一時の落語人気はテレビがもたらした人気でしたから、一過性のものだろうということは目に見えていたのですが。

 落語業界は、基本的に引退がありません。だから平均寿命が伸びたいま、真打の数も増えるばかり。もちろん名人といわれるような人もいましたし、いまもいますが、寄席の定席も少ない状態で、若い人たちが出る機会は減る一方。地域寄席だのファン主催の独演会だのといったところで演じるしか、観客の前で落語を演じるチャンスが減っています。

 こんな状況が昨今のマンガ業界にも感じられて、「マンガの古典化」が始まっているような気がしてならないわけです。旧作のリサイクル出版ばかりが繰り返されるという意味も含めて(ぼくも、その利益に預かるひとりであることも含めて)。

(余談:昨日、購入した「文藝春秋」に、作家の伊集院静氏とプロゴルファーの宮里藍選手の対談が載っていましたが、伊集院氏が「遊郭」という言葉を出したら、藍ちゃんは「遊郭って何ですか」。伊集院氏は祇園のことなど例に出したのですが、藍ちゃんは「ごめんなさい、わかりません」。伊集院氏も、これ以上の解説はせず、話題を変えておりましたが、藍ちゃんのクレバーなコメントの秘密もわかった楽しい対談でした。藍ちゃんのお父さん、えらい!)

 こういうことを考える一方で、たけくまさんと同じようなことも考えていました。「マンガ家の側が理論武装していかないと、いつまで経っても出版社の下請けに甘んじるばかりではないか」という危惧は、個人的には以前から感じていましたが、一昨年から昨年にかけて起きた「漫画原稿売却事件」に関連してできた「漫画原稿を守る会」の手伝いをした経験から、より痛感するようになりました。マンガを描くうえでの理論やシステムが整備されていないために、落語に似た口伝や徒弟制度の中で、技術や技法が伝承されているということです(歌舞伎の場合は、伝統文化の保存という観点から、国立劇場で歌舞伎役者の育成などがスタートしています)。

 理論・理屈・セオリーを踏まえたうえで、訓練により踏み台となる技術が高くなっていれば、たとえ不調に陥ったとしても、高い位置から再スタートできますし、スランプにもなりにくいことでしょう。

 ぼくは今年、早稲田大学人間科学部eスクール(ブロードバンドを利用した通信制大学ですが、カリキュラムは通学制と変わらない)に入学しましたが、その動機のひとつが、「マンガ技術教育法の研究」でした。早稲田大学人間科学部は、学部の名前のとおり「人間を科学する学部」で、心理学関連の科目が多数あることで知られています。また、従来の教育学とは異なるアメリカ生まれのインストラクショナル・デザイン(教育工学)の授業もあり、これが、アメリカの大学で開講されているようなシステム工学的な創作講座へのヒントになるのでは……と考え、この科目も受講してみたくて、入学することにしました。

 春学期には「基礎心理学」と「インストラクショナル・デザイン」(含む10科目)を受講しましたが、そこで学んだ知識をもとに、「インストラクショナル・デザイン」の最終レポートでは、以下のような架空の「早稲田大学人間科学部『マンガ科学科』設立趣意書」なるものを作成し、提出しました。半分本気、半分パロディ(業界への批判)のようなところもありますが。

■参照(ちょっと恥ずかしいんですが(^_^;)):

  http://www.m-sugaya.jp/final_report.htm

(すみません。URLはコピー&ペーストしてください)

 従来から、このようなことを漠然と考えつづけていたのですが、心理学やインストラクショナル・デザインの授業を受けることで、次第に視界がクリアになって気がします。2週間前からスタートした秋学期の授業では「認知心理学」も受講していますが、まだ未受講の部分を教科書で読んだりしていると、最近、マンガ表現で話題になることが多い「同一化」についても、この学問で説明できるようなところがたくさんあります。

 最近、たけくまさんがこだわっておられる「ディスプレイで読むマンガ」については、ぼくもコンピューターとの付き合いが長いマンガ家の一人という立場から、非常に興味を持っているのですが、これも認知心理学、環境心理学、色彩心理学などで説明できることがありそうです。

 これらの学問については、ちょこっとかじっただけのヒヨッコ状態なので、この先どうなるかわかりませんが、「心理学+インストラクショナル・デザイン」を使った「マンガの解析」を実験調査やゼミ、あるいは卒論のテーマにしていきたいと考えているところです。


 すみません。自分のBlogなのに、スパム防止機能に引っかかって、コメントが投稿できませんでした。

 URLを埋め込んだとき、自動的にジャンプできるようにすると、どうも引っかかるようなので、その機能をOFFにしました。指定したURLのサイトには、URLをコピー&ペーストして移動してください。お手数かけて申し訳ありませんです。


>山猫排さん

『鼻紙写楽』は1回目だけ読んで、あとの回を読み逃していますが、単行本になったときに、まとめて読むつもりです。

 一ノ関圭さんについてはデビュー作のときから、その画力に圧倒され、ずっと追いかけています。ただ、最近は「ビッグコミック」が送られてこなくなったため、見逃すことが多く、単行本で追跡ということが多いんですが。

 そんなわけで『鼻紙写楽』についてのカット割りについては、なんともいえないので、単行本の発刊を待ちたいと思います。でも、お話しどおりなら、面白い試みだし、また、「画力」がないとできない技法ですね。

 視点を変えて物語が変化するマンガは、手塚先生がやっていたような気もするのですが、題名が思い出せません。

 それから一ノ関圭さんの「圧倒的な画力」についてですが、岩波書店から発売になっている『絵本 夢の江戸歌舞伎』という本が凄いですよ(すでにご覧になっていたらすみません)。ぼくは、「杉浦日向子・原作/一ノ関圭・作画」という江戸ものマンガを夢想していたことがあります。

■『絵本 夢の江戸歌舞伎』(服部幸雄・文/一ノ関圭・絵/2001年初版/2,600円+税)

  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4001106485/mitsurusugaya-22/ref=nosim

■この本についての一ノ関さんのインタビュー:
  http://homepage3.nifty.com/kejokoku/book/script/yume_no_edokabuki_script1.htm

(サイト管理を担当している落語家さんのインタビューが掲載されて読みにいったら、偶然、一ノ関さんのインタビューが掲載されているのも見つけました。このインタビューで絵本のことを知り、あわてて注文したわけです。ほかに『江戸のあかり』という菜種油の流通に関する絵本もあります)

 これから打ち合わせなので、夏目さんへのコメントは、また後ほど……。


>モーション・コントロール・カメラのことを例に出したが、これは「カットの持続性、連続性」というよりも「めまぐるしくアングルが変化する視点」の例として考えてもらえると、よりわかりやすいのではないかと

う~ん実際にショットは長まわしでなくて、細かいショットの積み重ねでできているのに一つながりに感じてしまう(感じさせる)ことが映画ではけっこうあります。『新宝島』はあんがい後者寄りのように思えるのですね。


>小説初心者の中には、同一シーンの中で、「カット」の切り替えなしに――つまり、主語の変化や一行空けといった明示なしに、いつのまにか「視点の主体」が変化したり、同一パラグラフの中で「視点の主体」や「語り手」が変化してしまうものが


これと直接には関係はないのですけど、小松左京氏の長編『首都消失』の冒頭は超長まわし的でした(と某所で指摘があってはっとさせられた)。

名古屋発東京行きの始発ひかりに主人公が乗り込み、全線不通とかで浜松かどこかで降りたところそこに自衛隊所属の旧友がいて車に乗せてもらい、いろいろあって東京近郊の本社にたどりついて東京都が謎の雲につつまれて中に入れなくなっていることを知り、そのまま調査チームを引き連れて雲の壁(縦に聳えている)と接触し、いったん打ち切って本社に戻って仲間たちとあれこれ論議しているうちに夜になっている――


これ記憶では毎日連載されていたものでした(ああこわ)。



>すがやみつる様
「早稲田大学人間科学部『マンガ科学科』設立趣意書」拝読しました。
とても情熱的で訴求力を感じます。こういう趣意書を読むとB型人間の血が騒ぎ、妄想が逞しくなります。

【1】設立趣旨では、コンテンツ産業の輸出額と伸び率(グラフ化)など具体的な数字をたくさん散りばめてはいかがでしょう(田中角栄の演説テクニック)。
何故そんなに伸びているのかの理由付けとして、現代の少女マンガが、頁の開き方もそのまま(但しコマの順序などの具体的なインストラクション付)で、アメリカで出版され、従来のアメリカン・コミックの購買層では無かったハイ・ティーンの女子をマーケットとして開拓している事実や、アジアで違法複製の日本マンガが流通している事実、全世界のTVアニメの60%以上が日本製である事実など、日本製のマンガが世界で受け入られているという、ポジティブな情報を散りばめてはいかがでしょう。
また講談社ブルーバックスで、鈴木みそ氏の「化学」が、社会人をマーケットとして増刷を続けている事実を紹介し、マンガ表現が社会人教育にも大きな効果があることを強調されてはいかがでしょう。

【5】カリキュラムの詳細(シラバス)では、小説・DVDの借り出し自由とありますが、WEB時代に適応してオン・デマンド配信可能としてはいかがでしょう。一般人にも有料または会員制として公開し、学生には授業料の範囲だよと告げる事で「学割・オトク感」イメージを与えて動機付けします。
サーバーなどの設備投資・コンテンツの使用料などの問題は、すでに多くのポータル・サイト(BIGLOBE,YAHOO等)でオン・デマンド配信の実用化が進んでいますので、提携する事を前提にすると投資額を大きく減らせます(双方にメリットがあります)。
レポートの提出もWEB経由可能とし、HTMLによるHP形式(ブログ形式?)やWEBアニメ形式も受け付ける事とします(テキスト・メールは1年生はOKですが、2年生からはNG)。これは採点する側にとっても負担が少なくなるのではないでしょうか?

実習(卒業制作?)では「個人作成志向」と「グループ作成志向」の両方ができるように配慮し、作家=表現者の育成のみならず、プロデューサー・エディターなどの裏方の育成も視野に入れます。
「学習マンガ、マニュアルマンガのようなコンスタントな需要のあるジャンル」では、家電製品・携帯電話・デジタルAV機器等のマニュアルをビジュアル化=マンガ化するという卒業制作も可能とします。この場合、実際の企業からの採点・評価も加味します。

こういう夢のある、でっかい話は大好きです♪


↑ぼくも拝読しました。
なかなか充実した学科です。
京都精華大学が、結構これに近い構想を
持っていると思います。

ただ、それを教える人材が確保できない
というのが実情ではないかと。
関西方面の大学は、結構積極的にマンガ学科を
打ち出していますが、ビッグネームは週1回とか
ゲストみたいで、中身の水準を維持できていない
ようなのです。

それと、やはり理事らがマンガなんだから、こんな
もんで~とかいった判断だったり…でしょうね。
綜合性を持った学科の構築、将来的に絶対必要です。
編集やプロデュース面でも、編集現場に出てから
体験で憶えるだけでは、弱いはずです。

しかしこれも出版界がもう少し考えてみるべき
時代のはずですよね。
つまんない雑誌作って10億損したなんてことが
有りうるんですから。大学と版元の連携が、工業
分野のように有ってもフシギではないと思う。


それこそWEBスピードで大学改造が進めば良いのですが。
東大が学閥・ブランド力で一気に講師の人材を確保してしまうかも。
医学部・大学病院に美容整形を作ってしまった位ですから。


>夏目さん

 コメントをありがとうございました。

 新刊見本の受け取りにいってきたり、大学の授業があったりで、返信が遅れてしまい、申し訳ありません。

 このところ夏目さんの『マンガは今どうなっておるのか?』や伊藤さんの『テヅカ・イズ・デッド』をはじめ、多数のマンガ評論やマンガの表現に関する本を読んでいるのですが、一部の本には、批評家同士が互いの言葉に神経質になって、内向きの批評をし合っているような印象も受けました。

「マンガの批評」というよりも、「マンガ批評の批評」「批評のための批評」みたいな傾向が強まっているようにも感じられるところがあります。そのせいで、ちょっと食傷気味に感じているところもあるかもしれません。

 また、マンガ表現に関する批評を読んでいると、マンガ実作経験の有無がわかりますね。


>トロ~ロさん

 ぼくがいままさに学んでいる早稲田大学人間科学部eスクールが、まさにおっしゃるようなブロードバンドを使った通信制大学なんです。通学制の授業をビデオで見たり、スタジオで撮影された専用ビデオコンテンツを見て、BBSでディスカッションしたり、専用コーナーからレポートを送ったりしています。

 英語は1週間おきにネィティブのチューター(講師)から電話がかかってきて、スピーキングのテストをされます(交互にライティングのテスト)。

 春学期、秋学期ともに10科目ずつ受講しているのですが、授業を視聴するだけでも時間をひねり出すのが大変です。

>長谷先生

 出版業界の産業規模ですと、産学協同は、ちょっとむずかしいかもしれませんね。


すがやみつる様

お返事ありがとうございます。
ご紹介いただいた絵本なのですが私の愛読書で、良く引っ張りだしては意味も無く眺めてます(笑)
個人的には「江戸のあかり」の方が好きで、光と影の付け方・働く男たちの筋肉と骨・縁日の賑わいや家庭の団らん、どれを観ても圧倒されてしまいます。
実は私も絵に携わる仕事をしているのですが、「あの2冊の絵本は反則だな?ぁ」等と思っていたりします。(爆)
余談ですが、中に当時の歌舞伎の照明の画もあるのですが、荒事(隈取り)も江戸時代のあの面あかりの暗さでは実にリアルで理にかなったメーキャップだったのではないかな?と思いました。

>ぼくは、「杉浦日向子・原作/一ノ関圭・作画」という江戸ものマンガを夢想していたことがあります。

とても興味深い組み合わせですね。
やはり下調べのキチンとした物は読んでてとても気持ちがいいですし、新たな知的好奇心を呼び起こさせます。
私はこの2人の女性のおかげで江戸への興味が出てきてしまい、我が家の本棚には得体の知れない江戸本があふれそうになってしまいました。
(そのかわり、在り来たりの時代劇ドラマは食傷気味になってしまいましたが・・・・笑)

>視点を変えて物語が変化するマンガは、手塚先生がやっていたような気もするのですが、題名が思い出せません。

流石手塚先生!と言った感じですね。手塚先生と言えば「火の鳥・羽衣編」の構図とても印象的でした。
そう思うと、手塚先生は偉大だぁ?と改めて思うと同時に、最近の漫画では実験的な事を思い切って出来るだけの機会は減っているのかなぁ?と思ったりします。
高野文子さんとかは色々面白い事をやっておられますが・・・(まぁ、高野さんの絵も画力のいる絵ですね)


>山猫排さん

 一ノ関さんの絵本をお持ちだったんですね。こちらもときどき開いては、ため息をついています。こんなに上手に絵が描けたら、ぼくもマンガ家をつづけていたのですが(^_^;)。

 1つのできごとを登場人物ごとの視点によって多層的に描く……というのは、よく考えたら、黒澤明監督の『羅生門』がそうでしたね。同じような構成のマンガ、貸本劇画でも見たことがあるような気もするのですが。芝居でも見たな、そういえば。薄井ゆうじさん原作の『湖底』という青年座の芝居が、こんな構成をとっていましたが、ほかにもあるはずです。

 小説では『チェラシーテラスへの道』(ジェフリー・アーチャー)が、似たような構成でした。

 あ、映画でいえば裁判ものの『十二人の怒れる男』が、こんな感じじゃありませんでしたっけ?

 書きながら思い出しつつまた書いているので、間違いがあるかもしれませんが……。


すがやみつる様

すみません。m(_ _)m 私の説明が変で、ちょっと誤解があるかも知れません。

「鼻紙写楽」の場合、1つのできごとを登場人物ごとの視点によって多層的に描くと言うより、まったく別々の独立した話が、1つのシーンで交差している。と言った感じなので、「羅生門」や「十二人の怒れる男」とは少し違う様な気がします。

もちろん、他の読み切り系のマンガ等にも別々のストーリを交差させながら話を進める形態はあるのですが、それとも又違った感じがするのです・・・
幾つもの事がリンクしながら別々に進み、1つの世界観をより一層深くしている。そして、その交差点が多元的に描かれている。と言った感じでしょうか?

事実、1話は伊三を中心とした話で、4話は徳蔵(ひわの弟)の話です。一見すると関連の無い話なのですし、1話では2カットしか(とても小さく)徳蔵は出てきませんし、4話ではそのシーン以外に伊三は出てこないのです。
ただ、面白いのは「ひわ」の行動で、4話の前半から1話の後半へ流れて行っている感じです。

・・・自分の文章力の無さに自己嫌悪・・・これじゃ、何の事かよくわからん・・・ il||li ○ | ̄|_ il||li
やはり、単行本発刊後に改めて感想を聞かせて頂いた様がよいのかな?でも、年2話の進行だと何時になる事やら?・・・(;;)
ちょっと、手元にある掲載誌を送り届けたい心境です。・・・(笑)


>山猫排さん

 たしかに実物を拝見しないとわかりにくいですね。ただ、こちらも、いま書いている本の発売日が決定し、しかも年末進行も重なって締切が厳しいため、あまりブログにも関わっていられません。単行本が出るのを首を長くして待ちます。一ノ関さんの本は、ほとんど買っていますし……。


>幾つもの事がリンクしながら別々に進み、
>1つの世界観をより一層深くしている。
>そして、その交差点が多元的に描かれている。
>と言った感じ

 みなもと太郎氏の『風雲児たち』を是非ご一読下さい。そうしたシチュエーションのてんこ盛りで御座います。(好き嫌いは有るので強要はしませんが)



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