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追悼・永島慎二氏

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 永島慎二氏が6月10日に亡くなっていたらしい。体調が悪いとは聞いていたのだが……。

 永島氏に初めてお会いしたのは1969年晩秋のことだった。

 この年の春、高校卒業と同時にマンガ家のアシスタントになるために上京したぼくは、氏の連載本数が減ったことから半年で退職を余儀なくされ、一緒にアシスタントをしていたマンガ仲間の細井ゆうじの家に居候させてもらったあと、知り合いのマンガ家の紹介で、池袋東口にあったマンガ専門の編集プロに就職した。隣には一律100円で映画が見られる文芸座があり、事務所の入っているビルは、1階と2階がソープランドという素晴らしい環境の会社であった。

 この会社に入った直後、ぼくは社長に命じられて、中央線・阿佐ヶ谷駅近くにある永島氏のお宅を訪問した。用件は、ぼくの写真を届けにいくことだった。ぼくが入社した編集プロでは、社員全員の名刺に、永島氏の筆になる似顔絵が入っていた。この名刺につける似顔絵を描いてもらうため、ぼくは自分の写真を届けることになったのだ。

 このときは、玄関先で写真の入った封筒を渡し、後日、できあがった似顔絵をいただきにいったが、会話したのかどうか、まるで記憶がない。おそらくアガっていたせいだろう。永島氏が虫プロに勤務していた時代に貸本劇画誌「刑事(デカ)」に描いていた「漫画家残酷物語」、虫プロ退社後、「少年キング」に短期連載した「源太とおっかあ」や「COM」の「フーテン」が好きで、傾倒していたこともあったからだ。

 永島氏は、ちょうど、『柔道一直線』からは降りたか降りようとしていた頃だったはずだが、細かなことは記憶にない(ぼくは編集プロを退職後、永島氏の降板で『柔道一直線』を引き継いだ斎藤ゆずる氏に頼まれて、最終回までアシスタントに通った)。

 その後、ぼくもなんとか漫画家になり、28歳のとき、所沢に小さな建て売り住宅を買った頃、「COM」の編集長をつとめていた方に頼まれて、飯能までサイン会に出かけたことがある。このとき一緒にサイン会に招かれていたのが、石井いさみ氏と永島氏だった。

 サイン会が終わったあと、打ち上げの宴席に招かれたのだが、この席は永島氏の独演会となった。この少し前、いかにもフーテンの元祖らしく(?)、マリファナ吸引で逮捕されたことがあったのだが、その逮捕されたときの顛末をおもしろおかしく語ってくれたのだ。

 逮捕したのは神奈川県の横須賀署で、同所の留置所に入れられたそうだが、同房にはヤクザの親分がふんぞり返り、牢名主よろしくふんぞり返ったいたのだという。ところが新入りの永島氏の正体を知った親分は、房内の特等席を永島氏に譲り渡し、同房の被疑者たちに、「この方は、有名な漫画家の先生だから、失礼のないように」と命令したのだという。

 きょとんとしている永島氏の前で、その親分は、子ども時代に貸本屋に通っては、「刑事」をはじめとする貸本劇画誌を読み、「漫画家残酷物語」も愛読していたことを打ち明けたらしい。貸本屋は、どこの街でも、飲み屋が並ぶような裏通りの片隅にあり、工場や夜の店で働く若者たちが客筋の中心だった。そのヤクザの親分も、そんな場所で青春時代を送ったのではなかろうか。

 1960年代前半までのマンガ・劇画……とりわけ貸本劇画は、社会の底辺に根ざした娯楽だった。おそらく、あの時代が、マンガ・劇画にとっても青春時代だったのにちがいない。その後、バブルの時代を頂点に、わが世の春を謳歌したマンガ・劇画も、いまや黄昏の時を迎えている……。

 合掌。

(画像は永島氏の作品。「HIGHSPEED」は三洋社刊の貸本店向け短編劇画誌。表紙は川崎のぼる氏。右の2点は同誌に掲載の永島氏の劇画調作品。高校生のとき、永島氏の『漫画家残酷物語』の原画をもらいたくて、東京トップ社から何冊か「刑事」という短編劇画誌を買ったが、永島氏の原画がついてきたものの、富永一朗氏タッチの大人漫画のような作品で、ちょっとガッカリしたものだった/註:当時、版元から直接、劇画本を買うと、原画がオマケについてきた)


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コメント

 すがやさん、またまたフォレスト・ガンプぶりを・・・・。
 じつは僕もその昔、70年代の後半に漫画集団の慰安旅行にいって永島さんにお会いしてるんです。僕は「フーテンのコートさんは実在ですか?」などとアホな学生さん的質問をして永島さんを困らせていました。永島さんは、ほんとに困った風に「それは聞かないでよ」とおっしゃってました。ああ、こういう方なんだな、と妙に納得したのをおぼえています。
 合掌。


 たはは、フォレスト・ガンプですか(^_^;)。

 石津嵐さんが虫プロに入った当時、阿佐ヶ谷に住んでいたんですが、朝、阿佐ヶ谷から中村橋行きのバスに乗ると、同じように髭を生やしてサングラスをかけた怪しい男がいて、互いに意識しあっていたらしいんですが、中村橋に着くと、これまた同じ西武池袋線の電車に乗り換えて、1駅となりの富士見台で一緒に降りたと思ったら、とうとう、同じ虫プロに入っていって、初めて2人とも虫プロの社員だということに気づいた……なんて話を何度か聞きました。

 今週末に、石津嵐さんの娘(女優)の芝居を観に出かけますが、そのとき石津さんにも会う予定なので、また、永島さんの話など聞いてみたいと思います。

 あの頃の人たちは、皆さん、ダンさんで通してましたね、永島さんのこと。



今なら誰も信じないんでしょうけど、
オマケの原画を、夢中で集めましたね。
あのころはトーンを使っていなかったので、
水色が塗られていて、とてもきれいでした。


 永島先生は、15年くらい前に「週刊将棋」に将棋の駒を彫るのに凝ったはなしを連載していたと記憶しています。
 毎日新聞社発行ですからデータは残っていると思います。

 書道と木彫りと漆塗りの技術のいるけっこう大変なものなのですが、先生の画力からするとそうむずかしくなかったんでしょうねえ。(「怪奇!版画男」とはまた違った種類の技術です)


関連のurlがありました。

http://8ya.net/suiki/nagasima/

週刊将棋の記事は20年前でした。


>madiさん

 そういえば将棋の駒つくりの話は、永島先生から直接聞いたことがあります。石井いさみ先生を含む3人で、埼玉県飯能市でサイン会をしたときに……。


坂口尚作品集 すろををぷッでは寄稿頂きありがとうございました。

永島慎二の世界特集ページ
http://www.chikuma-shuhan.co.jp/books/ml/nagashimashinji/
より
このエントリーをリンクさせて頂きました。

トップではなくエントリーへのリンクとなりましたが、よろしかったでしょうか。

問題がありましたら返信、またはメールを頂ければ対応いたします。

9月上旬刊行の「永島慎二の世界」は、本ができ次第、贈本いたします。
万が一、発売日をすぎても本がとどかない場合はメールなどでご連絡ください。
よろしくお願い致します。


>チクマ秀版社web担当さん

 リンクの件、まったく問題ありません。

 贈本のことなど、あまりお気遣いなく。

 阿佐ヶ谷に行ったとき、ふらふらと永島先生のお宅のあったあたりを歩くことがありますが、景色が変わっていて、場所がわかりません。



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